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2019年6月6日木曜日

島本和彦『吼えろ!ペン』『新吼えろ!ペン』に思う研究者≒マンガ家論

私が島本和彦『吼えろ!ペン』『新吼えろ!ペン』に魅かれるのは,マンガ家と研究者がどこか似ているからかもしれない。

 自然科学であれ人文・社会科学であれ,研究においては価値判断によって事実を曲げてはならない。しかし,テーマ選択や問題設定,研究方法の選択,分析視角のとり方には価値判断や嗜好が大いに働く。そのため,論文は研究対象を何らかの形で反映しているが,それは研究対象を解釈するという実践を通して反映しているのであり,その解釈においては自分自身を表現してもいるのだ。だから論文は「作品」で「も」ある。解釈や自己表現の度合いは,おそらくは自然科学より社会科学の方がはるかに強く,人文科学においてさらに強い。

 論文に「作品」の性格が強ければ強いほど,小説家や漫画家と同じく,自分を見失った状態では書けなくなる。ところが,鏡なしに自分自身を観ることは,元来大変困難であるし,論文も一種の鏡になってくれるが,あまりに形が複雑すぎて,論文に映った自分が何だよくわからないこともある。

(引用1)アシスタント・前杉英雄「人も信用できない……。自分のマンガが面白いのかどうかもわからない……。混沌としたこの世界の中で,それでも毎月作品を上げている先生はたいしたものだったのだ!!」(『吼えろ!ペン』第12巻,小学館,2004年,121ページ)


 この困難を乗り越える秘策はないのだが,十分条件ではないものの必要条件だけはあると思う。それは,書き続けることだ。

(引用2)マンガ家・炎尾燃「そこが勝負どころだ!それでも作らなければ次につながっていかないだろう!」(『新吼えろ!ペン』第5巻,小学館,2006年,41ページ)


 ごくまれに,ものすごい寡作でも名声をなす研究者もいる(当研究科なら故・原田三郎教授などがそうだ)。しかし,それは超例外的な存在だ。たいていの研究者は,傑作だろうが駄作だろうが,書き続けないと,書けなくなる。それは,研究ノウハウを失うからというだけの理由ではない。研究者としての自分自身がわからなくなり,いっそう書けなくなるのだ。だから,出来がよかろうが悪かろうが,書くしかない。そう思わない人もいるだろうが,私は,こう思う(じゃあ,書けよさっさと)。

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