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2019年3月9日土曜日

佐竹光彦・飯田泰之・柳川隆編『アベノミクスの成否』勁草書房,2019年の7つの章を読んで

佐竹光彦・飯田泰之・柳川隆編(2019)『アベノミクスの成否』勁草書房。講義に反映させる内容があればと思い,マクロ経済政策をとりあげた1-6章を読んだ。

 どの論文もまちがっているとは思わない。着実に分析を行っていると思う。しかし,私にとってさほど新しい発見はなかった。なぜかというと,1)学説的にはアベノミクスを主導したリフレーション論が理論的及び実証的に妥当であったかどうかを正面から検証していないこと,2)現状分析としては,安倍政権下での景気回復が,なぜ独自の特徴(株価と企業収益が上がり,雇用の総量は増え,賃金は上がらず,コアorコアコア指数で見た物価も上がらない)を持ったのかについて,ほとんど突っ込んでいないからだと思う。正直,分析内容よりも,分析視角があまり鋭いと思えないことに疑問を持つ。

 唯一,深く考えさせられたのは,野田政権の解散表明が投資家の期待を大きく変えて円安への転換をもたらしたという北坂真一教授の指摘だ。飯田泰之教授は,これを期待とその転換の重要性を示すものとしているが,私は,それは分野によると考える。すなわち,アベノミクスにおいて,期待とその転換が直ちに効果を表したのは円安と株高であった。しかし,肝心かなめの財・サービスにおけるインフレ期待は,黒田総裁や岩田前副総裁も嘆くように,頑として動かなかったのである。それは,外国為替市場や株式市場と財・サービス市場では,投機的に反応できるかどうかが異なり,また仮に反応するとしてその速度がまったく異なるからだろう。この点は,参考になったが私の見解を確証させたのであって,変更する必要はない。
 
 細かいところで参考になったことはある。私は黒田総裁就任以来の日銀の金融政策を本質的に連続していると考え,すべて「異次元緩和」と呼んでいたが,形はだいぶ変わっているので,呼称の時期区分は実務の世界に合わせた方が良いかなと考えた。また,財務所の中島朗洋氏や飯田教授が掲げた財政に関する図表は,何点か講義スライドに取り入れた方が良いなと思った。

 マクロ経済政策とは別の話だが,大島堅一教授が執筆された第10章「安倍政権下における原子力政策ー費用負担制度を中心にー」も読んで,これはたいへん勉強になった。自民党政権に戻ってから「原発はコストが安い」と政府が主張するようになった根拠とその薄弱さ,損害賠償費用の内部化が,いつのまにか汚染者負担原則によってでなく,過去に電力料金が安かったのだから東京電力の消費者が負担せよという論理によるものにすりかわっていることが,よく理解できた。


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2019年3月5日火曜日

年功賃金をそのままにした「働き方改革」で「同一労働同一賃金」は実現できるか

 「大学職員に「同一労働同一賃金」はありえるのか?」大学職員の公募情報lite,2019年3月2日
 この記事のライターは大学の職場に独特の事情をとりあげることを意図していたのだろうが,企業一般に存在する問題を言い当ててしまっている。

「契約職員の同⼀労働同⼀賃金を阻んでいる壁が、専任職員に適用されている年功俸給です。」
「専任職員の年功俸給と契約職員の同⼀労働同⼀賃金を併存させようとすると、「30歳と40歳の2名の専任職員と同じ業務を契約職員が担当した場合、どちらの専任職員の給与に合わせるのか︖」というような問題が生じます。」

 その通りだ。これは,大学だけの話ではない。日本の年功賃金を放置したまま「同一労働同一賃金」を実現しようとする「働き方改革」関連法の前に立ちふさがる,最大の壁であり,原理的に乗り越え困難な壁である。一体全体,どうするつもりなのか。

 この記事のライターは言う。
「したがって、契約職員と専任職員の間で同⼀労働同⼀賃金を実現するためには、おそらく専任職員に関する厳密な能力主義給与体系が前提になるのではないかと思っています」。

 まちがいとはいえないが,こういってもおそらく力がない。日本の大企業は,すでに「能力主義管理=職能給」を制度上は実行しているからだ。しかし,「能力」を測る尺度が曖昧模糊としているために,現実にはジェンダーバイアス付き年功賃金となっている。ここでジェンダーバイアスとは,露骨に女性を劣等視する差別だけではなく,「育休なんか取るやつは会社に貢献する能力がない」という類の,事実上女性を不利な立場に追い込むことを含む。

 だから,同一労働同一賃金を実現しようとしたら,必要なのは能力主義ではなく,職務給だ。ポストそのものに値段をつけ,誰がやろうとも同じ賃金を払う。もちろん,成果査定によって差はつくだろうがベースは同じだ。これならば,30歳と40歳の専任職員の給与は同じなので,冒頭の悩みはない。専任社員と契約社員との職務の価値(肉体的・精神的負荷,付加価値への貢献,難易度,必要な訓練費用,責任の度合いなど)の同一性・差異性だけで考えて,つまりは同一(価値)労働同一賃金の原則によって賃率を設定できる。

 日本の正社員の賃金形態を一気に職務給に飛び移らせることは難しい。しかし,年功賃金のままで契約社員や多様な非正規社員との間での同一労働同一賃金を図ることは,もっともっと難しい。

 この難題は,現在厚労相から提出されている「同一労働同一賃金」ガイドライン(※)では解決されていない。このままでは企業の現場は混乱し,「働き方改革」は,基本給の同一労働同一賃金については絵に描いた餅になるだろう。どうしたらよいのか。政府には,関連法案が完全適用される来年4月までに方策をねり,より具体的な法解釈を整える責任がある。

「短時間・有期雇用労働者及び派遣労働者に対する不合理な待遇の禁止等に関する指針」(同一労働同一賃金ガイドライン),2018年12月30日。

2019年3月3日日曜日

リフレーション派の理論的想定と「異次元緩和」の実際は矛盾している

 この小論は,リフレーション派が目指したのは「名目的物価上昇が引き起こす需要増加」のはずだったが,実行された「異次元緩和」が刺激しようとしたのは「需要増加に伴う実質的物価上昇」であるという矛盾を示して,リフレーション論の果たした役割を指摘する。

 ここでは,1990年代以後の日本経済を「不況だからデフレになったのではない。デフレだから不況だったのだ」と診断してきた人々,その裏返しとして「デフレを脱却すれば景気が良くなる」とも主張し,そのために通貨供給量を膨張させるリフレーション,それを達成するためのインフレ・ターゲティングを主張した人々をリフレーション派と呼ぶ。この人々の一部は政財界に影響力を行使することができ,ついに安倍首相・黒田総裁のもと「異次元緩和」で実行させた。

 「好況だからインフレになる」「不況だからデフレになる」は,常識的にわかりやすい。好況期の財・サービスの需要超過,不況期の供給超過で物価がそれぞれ上がり,また下がるからだ。この好不況が民間セクターによって自律的に起こったものとすれば,財・サービスの流通する市中の需要・供給超過に応じて,流通に必要な貨幣が増減する。それに応じて,銀行からの貸し付けが増えたり減ったりして,通貨量は調節されるのだ。その際に生じる「インフレ」「デフレ」は,実質的な物価上昇,実質的な物価下落である。

 リフレーション派が想定しているのは,このような事態ではない。不況になっていなくてもそれより先にデフレが,好況になる前でもまずインフレが起こるような事態を想定しているのだ。

 古典的な本位貨幣制度ならば,こうしたインフレ・デフレもありうることはすぐにわかる。価格の度量標準(1円=金750ミリグラムなど)が切り下げられれば物価が騰貴し,切り上げられれば下落する。財・サービスを流通させるために必要な金属自体の量は変わらないのだが,それに対応する価格標準が変わってしまったために,物価が騰貴したり,下落したりする。これは名目的な物価の上昇・下落である。

 管理通貨制のもとでは,価格の度量標準は公定されない。そのため,物価の変動が実質的なものか,名目的なものかの区別はわかりにくい。事実,日常用語ではインフレーションとは持続的な全般的物価上昇であり,デフレーションとは持続的な全般的物価下落だとしか理解されていない。しかし,財・サービスの流通する市中の需要・供給超過に対応して通貨量が増減し物価が上下するのか,通貨が投入されたり,必要なだけ投入されないために物価が上下するのかという区別は存在する。前者を実質的な物価の上昇・下落,後者を名目的な物価の上昇・下落と呼ぶこともできる。

 管理通貨制のもとで後者が生じるのは,例えば不換紙幣を政府が発行したり,政府が中央銀行に国債を直接引き受けさせたりして,財政支出を拡大した場合である。この時,財・サービスの流通量は変わらないのに通貨供給だけが増加するので,物価は上昇する。

 リフレーション派は,このように物価上昇・下落に実質的なものと名目的なものの区別が存在することを認識している。そこまではもっともである。

 その上で,リフレーション派は,1990年代以後の日本経済について,まず日銀が十分な金融緩和をせずに通貨供給を制限していたから,名目的物価下落としてのデフレになり,デフレだから不況になったと主張した。そして,その裏返しとして,通貨供給量を十分に増やせば,名目的物価下落としてのデフレがなくなり,不況もなくなると主張した。そして,この主張は安倍政権,黒田総裁のもとでの日本銀行に採用されるに至り,「異次元の金融緩和」が実行されたのである。

 「異次元緩和」で行われたことは,日銀による国債の無制限購入,ETF(上場投資信託)やJ-RIET(不動産投資信託)など金融資産の大量購入である。この代金が金融機関が持つ日銀当座預金に振り込まれる。しかし,これではまだ通貨供給をしたことにならない。日銀当座預金の増加が短期金融市場での供給を増やし,利子率を低下させて,それが銀行からの企業の借り入れ増につながった場合,あるいは日銀当座預金の低い収益性(今は部分的にマイナス金利やゼロ金利もある)に飽き足らない金融機関がより収益性の高い貸し出しや投資を行った場合,はじめて通貨供給量(日銀券や預金通貨)が増加する。

 リフレーション派はこの流れが円滑に進むだろうと考えていたが,実際にはマネタリーベース(日本銀行券発行高+貨幣流通高+日銀当座預金残高)は激増したもののマネーストック(M2ならば日本銀行券発行高+貨幣流通高+預金通貨+準通貨+CD)は過去のトレンドを超えては伸びなかったというのが,統計の示すところである。

 なぜ,こんな結果になったのか。ここで問いたいのは,リフレーション派は名目的物価下落に名目的物価上昇で対抗しようとしていたはずなのに,「異次元緩和」の具体的な政策で想定されているのが,実質的物価上昇だということである。

 「異次元緩和」は,銀行が企業からの借り入れ需要に応えやすくし,あるいは新規社債発行の希望を適えやすくしようとしているのだ。実現すれば,企業は投資を行う。市中では預金通貨が増える。あるいは日銀当座預金が減って市中に日銀券が出回る。これは,財・サービスを流通させるための必要通貨量の増大に,金融機関・日銀が応じていることに他ならない。ここで目指されているのは,リフレーション派が想定したよな,まず通貨供給量を伸ばしてインフレにし,それを刺激に需要を伸ばすということではない。需要を伸ばせばインフレになり通貨供給量も伸びる,ということに過ぎないのだ。

 リフレーション派は,ときに一般向け解説では,日銀券=不換銀行券を不換紙幣と同一視する。日銀が国債を買い入れれば通貨供給量が自動的に増えるかのように話をもっていくのである。しかし,これはおかしい。日銀券は政府発行の不換紙幣ではない。いくら日銀が国債を買っても,また銀行にお金を貸し付けても同じだが,銀行が日銀当座預金をそのままにしておくだけならば,通貨量は増えない。日銀の金融調節では,需要と関係なく通過を流通に投入することはできない。

 あるいはまたリフレーション派は,ここを「期待」の理論でお化粧する。名目金利が下がることに加えて人々の予想物価上昇率が上がれば,その合力として実質金利が下がるのだから,インフレ期待を高めて好況にするという因果関係だという。それがうまくいかなかったのは黒田総裁や岩田前副総裁が嘆いている通りである。しかし,期待は期待であって,実態が動かないと完結できない。期待の論理という皮を一枚はげば,より実態的な過程にあるのは,需要を刺激できれば好況になってインフレになるという単純な因果関係なのである。

 だからリフレ派は,理論と政策が矛盾している。リフレ派は,名目的物価上昇を起こして不況を好況に転換させるのだと主張した。しかし,実際に行なわれた「異次元の金融緩和」は,需要を刺激して,実質的物価上昇を伴う好況を呼び起こそうとするものだったのである。

 これは,理屈だけの問題ではなく,リフレーション理論が果たした役割に関わる。「異次元緩和」は確かに非伝統的な政策を繰り出しているものの,中央銀行による金融調節の本質を変えたわけではなかった。日銀当座預金を積み上げても通貨供給量が増えなかったという事実からくみ取るべきは,財・サービスの流通する市中からの需要がなければ通貨供給は増えないのであり,財・サービスの流通から全く独立に通貨供給を増やすことはできないということである。この金融調節の性質を歪めて伝え,日銀が自由に通貨供給量を調節できるかのように宣伝し,「異次元緩和」に過度な幻想を持たせたことがリフレーション理論の役割だったと,私は考える。

 残された論点であるが,リフレーション派が,自らの理論に整合した政策を行う可能性が二つだけある。ひとつは政府が発行する国債を,日銀が直接に引き受けることである。この場合,日銀が支払う代金は政府預金に振り込まれ,政府は必ずやそれを財政支出に用いるだろう。よって通貨供給量は増大する。もうひとつは,政府が不換紙幣を発行して財政支出に用いることである。これらの手段を使ったときのみ,日銀を従えた政府は,望むだけ通貨供給量を増やすことができる。ただし,減らすことは困難であろうことは,歴史が示している。

 小論は,「異次元緩和」をめぐるリフレーション派の矛盾とその実際的役割を論じた。日銀による国債引き受けや政府紙幣発行の是非,さらに金融緩和・財政拡張に過度に依存すること自体の問題については,残された課題である。

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「2018年度卒業論文特集号によせて ーあの日のゼミー (産業発展論ゼミ誌『研究調査シリーズ』No.37所収)」Ka-Bataブログ,2019年3月11日。
「森永卓郎さんとの対話を通して,新しい構造改革の必要性を考える」Ka-Bataブログ,2019年2月17日。
「稲葉振一郎『新自由主義という妖怪 資本主義史論の試み』を読む」Ka-Bataブログ,2018年11月1日。
「ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は<経済>を語ろう』亜紀書房,2018年によせて (2018/6/21)」Ka-Bataアーカイブ。
日銀による金融政策だけで物価を上げようとすることの限界について(2018/6/16)」Ka-Bataアーカイブ。
「アベノミクスのどこを変えるべきか? 野口旭『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書,2018年)に寄せて (2018/5/13)」Ka-Bataアーカイブ。


2019年2月24日日曜日

古い本と現在の私

 仙台駅前のE BeanS(=エンドーチェーン)で古本市があり,栃木県から「かぴぱら書房」という古書店が出店していた。ついうっかり,もうやるまいと思っていた「大学図書館にあるのだが手元に置きたいから買う」を3冊もやってしまった。

 1冊目はひとつは私の師匠村岡俊三教授のそのまた師匠である岡橋保教授が1972年に出された本で,序文にはスミソニアン合意のことが書かれている。師匠の言うことも半分くらいしか理解できていない私には,岡橋教授の論文もかなり難しい。しかし,この方の「不換銀行券は信用貨幣であり,政府が中央銀行に国債を引き受けさせる時以外は貨幣流通の法則に従う」という理論を,師匠を通して知らなければ,私はリフレーション論・インフレターゲティング論を批判できなかった。

 2冊目は,ついにお手紙を交わすだけでお会いすることのなかった技術論の心の師匠,中村静治教授の第1作。横浜高商を出て東京瓦斯電気工業に入社し,働きながら書いたものだそうだ。一方で,日本工業の立ち遅れを実証的に書きながら,1943年という戦時中のことで,時局迎合的な表現もある。大日本出版会から賞をもらえることになったと思ったら難波田春夫氏が「これはどうもアカの残党ではないか」と言ったとのことで取り消しになり,逆に特高に踏み込まれるかもしれないと蔵書を隠す騒ぎになったと,中村氏は述べられたことがある(「中村静治氏に聞くー工場・技術・経済学ー」『経済科学通信』第11号,1975年2月。なお,インタビュアーは森岡孝二氏である)。中村教授が後に著した『技術論論争史 上・下』(青木書店,1975年)に出会わなければ,私は産業論研究者として立ち上がれなかった。

 3冊目は,これまでタイ鉄鋼業の史実の確認と,雁行形態論と鉄鋼業の関係に関わる論点の確認のために2回引用した,戸田弘元氏の1970年の著作。氏は日本鉄鋼連盟調査部のエコノミストで,後に常務理事にもなられた。アジア経済研究所のアジア鉄鋼業プロジェクトにもアドバイスをくださった。実は,氏はかなり気難しい方でもあるのだが,私は,氏が小学生の頃,仙台で父と間接的な知り合いだったこともあってか,おおむね勘弁してもらい,励ましてもらうことが多かった。一度だけ,ホテルニューオータニかどこかのバーで,2人でお話しさせていただいたことが,記憶に残っている。鉄鋼業に特化しつつ世界各国を見るという,私の無茶な研究スタイルの大先輩である。

 どの本も,いまから見れば過去の存在なのだろうが,私にとっては現在の力だ。こうした先達のおかげで,私はかろうじて経済学者という商売をしていられる。

岡橋保(1972)『増訂 金投機の経済学』時潮社。
中村静治(1943)『日本工業論』ダイヤモンド社。
戸田弘元(1970)『アジアの鉄鋼業』アジア経済研究所。


2019年2月22日金曜日

経団連の「就活ルール」廃止と「提案」をどう受け止めるか

 以下は,『全大教新聞』第356号,全国大学高専教職員組合,2019年2月10日に寄稿したものです。

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 2018年10月9日,日本経済団体連合会(経団連)は2021年度以降入社対象の「採用選考に関する指針」(いわゆる「就活ルール」)を廃止することを決定し,さらに12月4日に「今後の採用と大学教育に関する提案」(以下「提案」)を発表した。この経団連の動きに対して,ここでは2点述べたい。

「青田買い」激化のおそれとその弊害

 第一に,「就活ルール」廃止は,大学教育と学生生活を今以上に攪乱するおそれがある。これまでも経団連の「就活ルール」が形骸化し,そこで定められた期日以前から採用活動が行われて来たことは公然の事実である。その廃止は現状を追認しつつ公認する作用があり,企業による学生の早期囲い込みはさらに激しくなる可能性がある。

 より広く見ると,このような青田買いは,個別企業の短期的利益にはなっても,日本社会の人的資源涵養,有効活用にはならないという問題がある。日本の新規学卒採用は,在学中の卒業予定者だけを対象にして,職務と勤務地を明示せずに「入社」させるものであり,濱口桂一郎氏が定式化したメンバーシップ型雇用の入り口である(濱口『若者と労働』中公新書ラクレ,2013年他を参照)。選考時に学生に求められるのは,各社が各様に定める「潜在能力」であり,実際には「協調性」を含む「人格」が重視される。選考活動で学生は人格を問われ,落とされるたびに人格を否定されて衝撃を受ける。これまで,このような活動が企業にとって有効だったのは,「入社」させた従業員の多くを定年まで長期雇用し,忠誠心と技能の混合物を企業内訓練で育成することで,企業成長に貢献させることができたからである。ところが1990年代末から,経済停滞による雇用コストの相対的上昇,専門人材獲得の困難,女性の活躍の困難など様々な問題が噴出し,このような雇用管理の有効性が低下しているのである。

大学の立場からの改革提言を

 第二に,「提案」は,企業の立場から日本の労働市場を改革しようとするものであることに注意しなければならない。「提案」は,「新卒⼀括採⽤のほか、卒業時期の異なる学⽣や未就職卒業者、留学経験者、外国⼈留学⽣などを対象に、夏季・秋季の採⽤・⼊社なども柔軟に⾏うべき」であり,「新卒・既卒や⽂系・理系の垣根を設けない、通年採⽤・通年⼊社等の多様な選択肢を設けていく必要がある」と述べている。そして,この構想の実現のために「⼤学と経済界が直接、継続的に対話する枠組み」の設定も提案している。新規学卒採用をやめはしないものの,その比重を減らしていこうという提案である。その分だけ,何らかの形で職務や勤務地を特定したジョブ型雇用と,新規卒業予定者に対象を限定しない採用を増やしていこうというのである。

 経団連の目的は企業利益のための多様な人材,専門的人材の獲得であるが,その提案は低成長・人口減少・超高齢化という社会の変化に対応している面がある。この社会に残された労働力の給源は,再就職を目指す女性や高齢者である。現在の雇用慣行では,これらの人々は非正規としてしか採用されない傾向が強い。日本社会の持続可能性のためには,性別はもちろん,年齢や,初職,転職,再就職の区別のない雇用管理を拡大することが必要である。このことは社会的にも明らかであるが,企業の立場からも人的資源の幅の制約を突破する方策として唱えられているのである。

 ジョブ型採用が拡大した場合の大学への影響は複雑である。新規学卒採用に特有の青田買いや,「就職浪人」が受ける極度に不利な扱い,就活での人格否定がなくなることは望ましい。他方,ジョブ型の採用においては,学生は全年齢層を含む競争に加わらねばならず,「潜在能力」でなく明確な職業的能力を問われることになるので,不利な立場に立たされるおそれがある。そのことは,大学に対する職業教育の要請に結びつく。

 「提案」の実行に日本企業がどこまで踏み出すかは容易に予期しがたく,「就活ルール」廃止が企業の身勝手な青田買いの激化に終わる危険もある。大学はこのことに十分な警戒を払わねばならない。と同時に,大学と労働市場の結びつき方について,大学自身の立場から提言することが求められているのである。

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「大学の学力問題と労働市場 (2017/7/4)」Ka-Bataアーカイブ。



2019年2月21日木曜日

なぜ韓国の文国会議長は日本政府による「法的な謝罪」とは別の謝罪を求めるのか

 慰安婦問題についての韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長発言が物議をかもしている。文議長の発言の最大の特徴は,日本政府が謝罪したことを認めたうえで,なお首相又は天皇が謝るのが望ましいとしていることだ。私は,この思考に,慰安婦問題をめぐる日韓のすれ違いを理解する,思想上の鍵の一つがあるように思う。

 まず文議長の主張を確認しよう。文議長は,首相や天皇に謝罪を求める発言をした際,日韓合意について尋ねられ,「それは法的な謝罪だ。国家間で謝罪したりされたりすることはあるが、問題は被害者がいるということだ」と発言している。つまり,法的な謝罪は行われたと認めたうえで,なおかつ国家の代表たる人間が慰安婦という個人に謝罪すべきだと考えているのだ。

 実は,この文議長の発言は,慰安婦問題をめぐる混乱の中では,事実を踏まえた方だともいえる。韓国内では日本の政府代表やそれに類する立場の人が何度も謝罪していること自体が,よく認識されていないからだ。世宗大学の朴裕河(パク・ユハ)教授は2月10日に自身のFacebookに韓国語で投稿し,日本政府やアジア女性基金による従軍慰安婦問題や植民地支配に対する11回の謝罪を紹介した。うち従軍慰安婦に関する謝罪は,1992年の加藤官房長官,1993年河野官房長官,1995年五十嵐官房長官,1995年村山首相,1996年原アジア女性基金理事長,1997年橋本首相,1998年原アジア女性基金理事長,2015年岸田外相の日韓合意発表,同じくその際の安倍首相発言の9回だ。いちばん最近の安倍首相の発言(岸田外相が紹介)は,「日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する」というものだ。

 朴教授は,投稿の意図を「これだけしたのでもう謝罪が必要ないという話ではない。日本が長い時間をかけてきた心と"正しく"向き合うことが必要だということだ」と書かれている(Google翻訳と報道に頼っているのでニュアンスが違っていたらご指摘を)。しかし,朴教授がわざわざこの投稿をしたというのは,謝罪の事実そのものが韓国内でよく認識されていないからだ。これと比べると,文議長は何はともあれ「法的な謝罪」をしたことは認めている。その上で,なお謝るべきだというのだ。もう少し具体的に言うと,国家の代表たる人間が慰安婦という個人に謝罪すべきだと考えているのだ。

 もちろん,ここで天皇を持ち出したのは明らかにお門違いだ。天皇は政治的行為を禁止されているから適切ではない。その上,親に戦争責任があることと関連付けて息子が謝るのがよいという古臭い血統主義は論外だ。しかし,いま問題にしたいのはそこではない。法的な謝罪をしてもなお,国家の代表が被害者に謝罪せよという文議長の考えに絞りたい。

 想像してみよう。天皇が慰安婦に謝罪すれば,文議長が言うところの解決は訪れるだろうか。私はそうは思わない。それは,謝罪を受けた元慰安婦の方々が,許す気持ちになるかどうか,それをどう表現するかにかかっているだろう。被害者の許しが解決の条件になることは,明らかだ。文議長の「被害者がいる」というのは,「被害者が許すまで謝罪するべきだ」という意味なのだ。

 私は,被害者と加害者の許しをこのようにとらえることは,個人と個人の関係ではあり得ると思う。しかし,これを政治として,個人と政府を当事者とする問題において行おうとするのが,文議長の論理だ。そして,このような論理は,彼一人のものではなく,慰安婦問題をめぐる韓国内の一定の立場が,一定の経過に反応して生じたもののように思う。

 さかのぼってみよう。1990年代に慰安婦問題をめぐって日韓で論争が行われていた際の争点は,日本政府が公式に責任を認めて罪を償うことだった。日本政府は,謝罪の意を表明したうえで,請求権協定の主旨から言って国家による賠償ができないとした。しかし,村山内閣とその周囲の人々は,それでも補償に類したことをすべきとして,アジア女性基金による事業を実行した。それでも韓国の慰安婦支援者たちからの批判は止まなかった。その時の主旨は,「国家による正式な賠償ではない。これでは謝罪したことにならない」だった。

 2015年の日韓合意においては,日本政府が改めて謝罪し,改めて元慰安婦への償いのための基金・財団を設立した。それが日韓の政府間合意であったことは明らかであり,否定のしようがない。そして,元慰安婦47人中,34人は支援金を受け取ったと,『朝日新聞』デジタル1月28日付けは報道している。元慰安婦の方々から,この事業が総否定されているわけではないのだ。

 しかし,文在寅(ムン・ジェイン)政権は日韓合意では解決しないとし,「和解・癒し財団」を解散すると決めてしまった。そして,日本にさらなる行動を求めるのだが,いったいなにを求めているのかは明確にしない。何かは求めているのだが,何なのかははっきりと言わない。そうした中で,何を求めるかを粗雑な形で表現してしまったのが,今回の文国会議長発言だと思う。

 文在寅大統領が,日本に何を求めるかをはっきりさせないのは,もちろん,政治力学上の選択でもあるだろう。しかし,そうならざるを得ない論理的理由もあるのだと私は思う。それは簡単で,日本政府が謝罪し,しかもアジア女性基金の時とは異なり,政府の正式な予算,日本国民の税金から基金を拠出したからだ。国と国との関係において,片方が正式に謝罪し,補償も支払った。そうすることに,前政権は合意した。これに対して以前の支援団体のように「正式な賠償ではないから,謝罪したことにならない」というのは,さすがに無理があるからだ。

 だが,それでも文在寅政権もその支持者も,文国会議長も納得せず,日韓合意の意義を否定する。支援金を受け取って日本政府の誠意を認めている元慰安婦もいるという事実を無視していることは問題だ。しかし,元慰安婦の少なくとも一部に,いまなお日本政府の謝罪の仕方を受け入れられない人がいることも事実だろう。文議長の発言や文在寅政権の態度が本心からだとすれば,つまりは,被害者の苦しみが十分癒されたとは考えていないということだろう。

 繰り返すが,このような納得できなさ,加害者の謝罪の仕方が被害者にとって納得できないことは,個人と個人の関係においては,あり得る。被害者が納得するまで加害者にもっともっと謝罪しなおさせねばならない,という倫理・道徳も,個人間ではあり得る。それほどまで苦しみ,傷つくことは,ありうるからだ。

 しかし,文議長は,この倫理を外交に適用し,個人と国家の関係に適用し,国家の行動原理にしようとしている。そして,文議長だけではない。文大統領の,日本に具体的要求はしないが善処は求めるという姿勢の背後には,少なくともこのような倫理・道徳による動機づけもあるのだと,私は思う(何度も言うが,政治の世界のことであり,これ「だけ」だとは全く思わない)。

 「政府としての謝罪や補償にかかわらず,慰安婦という被害者個人が許しを表現するまで,日本国家の代表が謝罪し続けるべき」という原理で,現代の,韓国と日本の国家を動かすことは可能であるのか。そして,妥当であるのか。その原理を作動させた場合に,日韓関係の将来はどうなるのか。その原理が政治の様々な場面で用いられるたら,何が起きるのか。

 私は,日韓合意後の慰安婦問題をめぐる,韓国からの日本批判を考える上で,一つの論点はここにあると思う。

 なお,一点だけ,ありうる批判にあらかじめ回答しておく。「慰安婦問題は人権問題だ」というものだ。私も人権問題だと思う。しかし,人権問題であることと,「被害者個人が許すまで,加害国家は謝罪し続けるべき」という原理を適用することは,必然的には結び付かない。それは,個人,倫理・道徳,国家の関係についての特定の見地によるものなのだ。どこでも当たり前のように妥当するものではない。この,特定の見地について,よく考えてみなければならない,というのが私の意見だ。

朴裕河(パク・ユハ)氏Facebook投稿。


「(世界発2019)慰安婦財団、残したものは 支援金、元慰安婦34人受け取り」『朝日新聞デジタル』2019年1月28日。


「盗人たけだけしい」韓国議長のヒートアップ 時系列でたどると見えるのは...J-CASTニュース,2019年2月18日。

2019年2月17日日曜日

森永卓郎さんの記事と対話して,新しい構造改革の必要性を考える

 森永卓郎さんは,「憲法改正も,原発政策も,働き方改革も,すべて反対だ。ただ一点,マクロ経済政策,すなわち財政政策と金融政策に関しては,安倍政権のやり方は,正しいと考えている」方だ。2000年代前半には「いまデフレなんだからインフレにすればいいんです」とリフレーション政策の正当性を強調しておられた。

 しかし,いま森永さんは,平成時代における日本の「転落」と「格差」のとてつもなさを,危機感をもって訴えている。それならば,「転落」と「格差」が,「異次元緩和」を政治的に導入した安倍内閣時代にも止まっていないのはどうしてなのかを考えてみる必要があるのではないか。

 安倍内閣は,確かに日銀と協定を結んで金融は緩和したし,財政も引き締めてはいない。私は,森永さんほど安倍政権の政策を支持できないが,これらは引き締め政策よりはましだった,とは考えている。

 しかし,だから,それで十分というものではない。それどころではない。

 安倍・黒田路線では,株高と円安にのみ偏った反応が現れた。その恩恵にあずかったのは,まず外国投資家(日本人が預けた資産を運用している場合もある)であり,続いて輸出企業であった。企業は賃上げをせず,正規雇用ではなく非正規雇用を拡大し,蓄積した純資本を設備ではなく現金積み上げや証券に投資した。雇用は拡大したが消費の拡大は弱弱しかった。6年続けてもこうなのだから,何かがおかしいと考えるべきだ。

 このようにしか金融・財政拡張の効果が出てこないのは,日本経済の構造に問題があると考えるべきだ。ただしそれは,小泉内閣が主張したような,企業が利益を上げることを妨げる構造ではない。供給サイドにおいては,新市場拡大に挑むようなベンチャー,中堅企業が生まれにくい構造だ。需要サイドにおいては,賃上げが鈍いために多数の個人のふところが温まらず,社会保障と雇用システムが不安定なために,消費を増やす気持ちになれない構造だ。

 どんな構造もそうだが,この構造も様々な既得権益を守っているが故に,変わりにくい。庶民の中にも既得権益がないとは言わない。しかし,最も深刻なのは,既存大企業の利益,富裕層の資産蓄積という既得権益だと思う。そこにメスを入れようとしないバイアスを,自公政権が持っている問題だと,私は思う。

 現在もなお,金融,財政を引き締めるべきではない。まして,消費税増税で景気を冷え込ませるべきでもない。私は,そこまでは森永さんやリフレ派の人と同意見だ。しかし,引き締めなければそれでよいというものでもないし,さらに金融,財政を拡張すればよいというものでも,まったくない。そこが,リフレ派の人とは全く異なる。日本経済は,小泉内閣とは異なる意味での構造改革を必要としている。新市場向け投資がやりやすくなり,多数の個人のふところが温まりやすくなり,しかも消費しやすくなるような構造への改革だ。

 森永さんも,格差を意識しているならば,いまでは,財政・金融の拡張だけでよいとは思っていないのではないか。

森永卓郎さん「とてつもない大転落」『平成 時代への道標インタビュー』NHK NEWS WEB。日付不詳。

森永卓郎「財務省にだまされてはいけない」『森永卓郎の戦争と平和講座』マガジン9,2018年5月16日。

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