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2019年11月2日土曜日

MMT派のように恒常的財政赤字を肯定する見地からは,「財源」論をどう考えればよいのか

 私は2019年3月18日の投稿では,本格的な再分配政策には消費税も欠かせないとする井手教授が『幸福の増税論で』展開した財源論を,プライマリー・バランスの赤字解消は必要ないという点を割り引いたうえで,示唆に富むと評価していた。しかし,2019年10月30日の投稿では,井手英策教授が,財政赤字の拡大を助け合い思想の欠如と結びつけていることを批判した。これは,3月の時点では財政理論についての私の考え方がいまよりも不安定だったことにもよる。そこで,現時点での考えを改めてノートしておきたい。

 これを一般的に言うならば,「MMT派のように財政赤字の恒常的存在を肯定する見地からは,支出増に対応した『財源』論をどう考えればよいのか」という課題について考えようというのである。

 まず財政についての基本的な考え方について。私は経済が成熟し,高成長が望めない先進資本主義国においては,財政赤字は常に存在してもかまわないし,むしろ存在しなければならないだろうと考えている。そして,赤字幅は拡大すべき時は拡大し,縮小すべき時は縮小すべきだと考える。MMT派が盛んに主張していることだが,ほんらい財務省も認めているように,1)通貨発行権を持つ主権国家は,その債務が自国建てである限りデフォルトを起こすことはない。なので,「借金が返せなくなる」という心配はないのだ。また,別途詳しく述べたが(※),2)財政赤字が金利の高騰を引き起こし,民間の投資資金調達をクラウド・アウトするということもない。この点はMMT派が正しく,常識の方が誤っている点である。ただし,3)モノやヒトなどの経済資源は希少であるから,野放図に財政赤字を拡大すると資源動員の限界やボトルネックに突き当たり,インフレ=モノとヒトのクラウド・アウトを起こす危険は存在する。また,4)財政支出が実物資源の購買力にならずに金融資産購入に回ってバブルを引き起こし,ある時点でそれが崩壊する危険も存在する。さらに,5)対外的に為替レートの急落を引き起こし,通商を混乱させたり対外債務のデフォルトを招く危険もある。だから,1)2)の心配はなくとも,3)4)5)には注意した財政運営が必要である。その制約条件の下で,失業をなくし,貧困と格差を緩和し,市場の失敗を補正し,社会的に望ましい行動を促進する一方望ましくない行動はくじくように財政を運営することが原則である。つまりは経済を望ましく機能させることが重要なのであって,その結果,財政が赤字であっても黒字であっても,それ自体は問題ではない。このような見地は,私はまだ学んでいないものの機能的財政論に近いだろうと予想している。

 さて,このような財政運営を成熟した資本主義経済で行った場合,景気循環を通して平均的にみると赤字になる可能性が高い。常時,格差と貧困に対処しなければならないし,傾向的な高齢化に対処しなければならないし,不況期には失業者が多数発生するからだ。赤字であること自体は,3)4)5)の条件を満たすならば全く問題はない。もっとも,満たすためにはモノ・ヒトが十分に存在しなければならないから,GDPにどう表現されるかどうかはとにかく,富の蓄積と人の教育という実物の面での経済開発は継続する必要がある。いくら医療に財政資金を投入しても,すぐれた医者や看護師がおらず,医薬品の研究・開発・生産が困難であって供給不足に陥ってはどうにもならない。その意味で,「成長か分配か」の二者択一論は不毛であり,分配の改善も必要ならば,必要なヒト・モノ・サービスが確保できるという意味の経済開発も必要である。

 以上のように考えるので,私は井手教授の助け合い,分かち合い,頼りあいの社会思想には賛成するのだが,財政にハードな予算制約を想定して,納税で痛みをわかちあうべきとする財政思想には賛成できないのである。経済を機能させるためには,国債を大いに発行して財政赤字が拡大すべき局面もあれば,課税を強化して財政黒字を出すべき局面もある。しかし,平均して財政は均衡させるべきという根拠はなく,平均すればむしろ赤字であろうと考えるのが,成熟した資本主義経済では現実的である。だから,財政赤字それ自体は,人々の助け合い思想の欠如でもなければ,民主主義の機能不全でもないのだ。

 さて,ここまでは井手教授に対する批判であり,MMT派に近い考えだ。しかし,では財政赤字はあってもかまわないという立場に立つとして,その立場からは,井手教授が論じている再分配革命の財源をどう考えればよいかという問題が生じる。井手教授の再分配革命が支出面で達成したいこと,つまり「生きるためのニーズが満たされる」ための事業が政府によってなされるべきことは私も賛成だ。では,その際,井手教授のように財源を計算するのはまちがいなのだろうか。

 一部,明らかに批判すべき点はある。それは,井手教授がプライマリー・バランスの均衡化に必要な財源まで想定していることだ。私は,それは必要ないと考える。では,それ以外の部分はどうか。井手教授は,教育と医療の無料化には12兆円プラス関連経費でおおむね19-20兆円が必要だとして,それに対応して歳入も20兆円必要だと考えている。そして消費税増税も必要だと言われる。ある程度財政赤字があってもかまわないという見地からは,このシミュレーションにどうコメントすべきなのだろうか。この点を解決することが,批判に伴う責任だろう。

 例えば,MMT派の貨幣論に立てば「財源」という概念自体が否定される。しかし,だからと言って,歳出と歳入の量的バランスの問題を考えなくてよくなるわけではない。恒常的な支出増だけを実行すれば,その分だけ財政赤字は常時増大する。しかし,財政赤字は拡大することが望ましい局面と縮小することが望ましい局面がある。インフレ圧力が高まったリバブルが生じたりしたりする好況局面では赤字圧力は望ましくない。だから,デフレの時期には財源を気にせず,当面の支出を赤字国債で賄えということはできるものの(そういう方向の主張は,現在の日本でMMTやリフレ論に基づく反緊縮派も行っている),常時そうしてよいわけではない。不況期も好況期も含めて一般原則として歳出歳入バランスはどうあるべきかを,MMT派であっても考えねばならない。

 まず望ましいのは,ランダル・レイの『MMT 現代貨幣理論入門』でも指摘されているように,財政支出は反循環的,つまり不況期に増えるように設計し,課税による歳入は順循環的,つまり好況期に増えるように設計することだ。この点では,財政学の常識とMMT派は一致している。

 ただ,常識を変えねばならないのは,景気循環を通して財政を均衡させる必要はなく,ある程度の財政赤字は常時あってもよい,ある方が望ましいということだ。しかし,どのくらいの赤字が常時あることが望ましいのか?この財政赤字の望ましい平均水準を想定することが必要だと思うが,これは状況に依存し過ぎていて,事前に定めるのが容易ではないように思う。そして,この困難が,財政拡大を必要とする事業を構想する際の財源論を難しくする。

 教育や医療の無償化に20兆円かかるとして,その財源も20兆円必要だということはないだろう。恒常的な赤字をある程度増やすことで対処してもよいからだ。しかし,前述のように歳入をまったく考えておかないと,インフレやバブルに耐えられないだろう。それでは歳入増はいくら必要だろうか。5兆円だろうか。10兆円だろうか。17兆円だろうか。この見当がつかないと,話は先に進まない。

 一時的な事業による支出増や強度に反循環的な支出であれば問題は難しくない。しかし,教育や医療に対する支出は,ほとんどは景気循環と関係なく,一定規模で存在し,かつ,増え続ける可能性も高いものだ。この支出は当然財政に赤字への恒久的圧力を加える。妙に聞こえるかもしれないが,不況ならば話は難しくなくて,財政赤字を出せばよい。しかし,むしろ好況に転じて,インフレやバブルが生じそうになった時が問題だ。教育・医療の無償維持が必要だとすれば,強力な財政赤字圧力に対抗して,課税を強化し,歳入を増やさねばならないだろう。その手立てを,インフレが生じそうになってから考えるのでは手遅れである。教育・医療の無償化を企画する時点で設計しておかなければならないだろう。

 ということは,「財源」と呼ぶべきかどうかは別として,再分配革命のための支出増の構想には,一定水準の安定した歳入増の構想が伴わねばならない。歳出・歳入のバランス論は,MMT派でもやはり必要なのである。歳出増と歳入増をイコールにする必要はない。一定の財政赤字増を想定してもよい。しかし,その妥当な赤字増大幅を合理的に想定しておかねばならない。ここが難しい。これは,MMT派のような財政赤字を許容し,むしろ奨励する学派にとって突き付けられた政策的課題であると思う。

 このように考えるならば,井手教授が,再分配革命の支出増にどのような歳入増を対応させるか,その際,安定した歳入源は何か,税の種類によって人々にどのような動機が与えられるかとシミュレーションしていることは,やはり重要だ。そして,想定すべき赤字幅がわからない状態では,考察の出発点として,歳出増=歳入増の条件でまずシミュレーションしてみることも,思考の手続きとしては合理的だろう。そうしたシミュレーションそのものを頭から拒否するのは適切でない。

 その上で,井手教授の主張をそのまま受け入れる必要はない。まず,プライマリー・バランスの黒字化は不要なので,そのための歳入増は必要ない。次に,歳出と歳入を完全にイコールにする必要はない。常時あるべき財政赤字幅に対応した当該事業の歳出超過幅を何とかして算定し,その分は国債を発行するとすればよいだろう。そのように増税必要額を割り引いて言った場合に,どのような結果になるだろうか。消費税を増税せずとも,所得税や法人税の累進性強化や,実行可能な資産課税,様々な大企業に有利過ぎる税額控除の廃止・縮小によって,十分な歳入増が確保できるだろうか。井手教授の所説を手掛かりに,そしてその所説を乗り越えるためには,ここが解明すべき課題だと私には思える。

「<財政赤字はアンモラルだ>という考えが,井手英策教授の理想の実現を妨げている」Ka-Bataブログ,2019年10月30日。

「本格的な再分配政策には消費税「も」欠かせない:井手英策『幸福の増税論 -財政は誰のために』岩波新書,2018年を読んで」Ka-Bataブログ,2019年3月18日。


2019年11月1日金曜日

鉄鋼の過剰生産能力に関するグローバル・フォーラムの終結について

 鉄鋼の過剰生産能力に関するグローバル・フォーラムの延長に参加国・地域の合意が得られなかった件。グローバルフォーラムの意義は,「過剰生産能力の規模が大きく,かつ慢性化することは問題だ」という認識の共有,生産能力に関する情報の共有,能力調整の実施状況をモニタリングし,あまりに不正常な行動が起きないように抑止しあうこと,であったと私は思う。逆に言えば,能力削減を直接に推進したり,監督したりする機能は持っていなかった。つまり,能力削減に直接の実効性を持つものではなかった。

 なので,このフォーラムがなくなっても,各国・地域における能力調整の取り組み自体はそれほど影響を受けないだろう。その点では,さほど深刻に考える必要はない。

 ただし,能力に関する情報を共有し,意見を交換する場が縮小することは問題がある。極端な独自行動に出る国・地域があった場合,これを抑止しにくくなるからだ。また,鉄鋼統計を共有する場が縮小することにも問題がある。産業統計は通商政策の基礎となり,逆に政策を評価する基本情報ともなるものだが,その国際的な比較可能性に問題があるからだ。鉄鋼統計は国・地域によって基準のズレがあり,精度もまちまちであって,そこから認識のずれや極論も生まれやすい。

 こうした意味ではグローバルフォーラムが継続されなかったことは残念だ。とくに生産能力情報については,国際的に共通の情報に基づいて意見を交換し合える場はOECD鉄鋼委員会だけになってしまった(World Steel Associationは能力情報は公表してない)。こちらを拠点にして,新たな取り組みを再構築するしかないだろう。


「鉄鋼の過剰生産能力に関するグローバル・フォーラム閣僚会合を開催しました」経済産業省,2019年10月26日。

2019年10月30日水曜日

<財政赤字はアンモラルだ>という考えが,井手英策教授の理想の実現を妨げている

私は,井手英策教授の「生きるためのニーズが満たされるべきだ」という考え,「雑に扱われていい人なんて一人もいない」という考えを支持する。そのために社会の成員が助け合うべきだという考え方にも共感する。しかし,井手教授は社会の成員が助け合うべきだということを,<税の納入で負担を分かち合うべきであり,財政赤字を出すべきでない>という考えに直結させているように見える。また,さらにすすんで,<増税に反対するのは助け合いの思想がないということだ>と,租税抵抗が財政赤字を拡大することをアンモラルだと主張しているように読める(※)。私は,この後の二つの考えには反対する。
 むしろ私は,極端に言えば<誰をも雑に扱わないためには,財政赤字くらい出していいじゃないか>という風に考えている。一応,その経済学的根拠もある。通貨発行権を持つ国家は,債務が自国通貨建てである限りはデフォルトを起こさない。もちろん,悪性インフレを起こすべきでないし,為替レートを暴落させるべきではないし,バブルとその崩壊を引き起こすべきではない。しかし,それらのことに気をつければ,常時財政赤字があっても問題ないはずである。また,常時財政赤字を出すことなく,失業者をすべて雇い,ミニマムの社会保障が実現できるかどうかも疑問である。
 私は,強引に要約するなら<租税抵抗による財政赤字はアンモラルだ>という考えが,井手教授の理想の実現を妨げているように思う。

※<>は引用でなく,井手教授の言っていることはこういうことになる,という解釈である。もちろん,井手教授は「アンモラル」という言葉を使っているわけではない。しかし,教授は租税抵抗を,助け合いの思想の欠如と結び付けてとらえており,その帰結としての財政赤字に倫理的な否定的意味を込めていると読めるのだ。これを「アンモラルと主張している」と解釈した。なお,教授は同時に,租税抵抗はお金を貯蓄として眠らせ,有効活用を妨げる効果を持つとも述べており,これには私は賛成する。

「賢人論第103回 井手英策氏 前編・中編・後編」みんなの介護,2019年10月21日,24日,28日。

井手英策『幸福の増税論』岩波書店,2018年。

2019年10月27日日曜日

地図は鬼門中の鬼門:米中合作アニメ映画『アボミナブル』がベトナムで上映中止になった件

 米中合作アニメ映画『アボミナブル』がベトナムで上映中止になった件。原因は,映画内に登場する南シナ海の地図に,中国が主張する国境線である九段線が書かれていたから。

 地図は鬼門中の鬼門,地雷中の地雷である。地図を,とくに境界線を描くというのは,高度に政治的な行為になりやすい。黙って「普通に」してれば政治的にならないというものではない。必要がないなら描かない,必要がない部分を描かない,国境を書かない,色を塗り分けないなどの目的意識的な工夫をして,なんとか非政治性や中立性を確保できるくらいに思った方がいい。さもないと,意識していようといまいと,客観的には特定の政治的立場の宣伝を行うことになってしまう。その政治宣伝を思わぬところで押し付けられた場合の反応は激しくなる。

 私にも覚えがないわけではない。以前に「東アジアプロジェクト」と言う共同研究をやっていたが,あるチラシに東アジアの地図を載せようとしたところ,以下のような問題に突き当たった。

*国別の色の塗分けはトラブルの元。係争地域について特定の判断をすることになるから。
*国境線を記すのもトラブルの元。この記事と同じ。
*端っこはどこまで東アジアとするかも,実は微妙な問題を含む。この時はそうではなかったが,ロシアの人々を含めた共同研究の場合もあるので,日本の右上をどこまで描くかですら,問題の種になるおそれがある。

 結局,東アジア全域を単色で塗りつぶし,またどこまでが東アジアかもボケた表現とする地図にした。

 また,ある共同研究の報告書で冒頭の中国の地誌に関する部分の原稿を中国人の先生に書いていただいたところ,彼が受けた標準的な地理教育に従い,九段線の内側まで中国とする文章を出してきたので,お願いして変えてもらったことがある。むろん,ベトナムの主張通りに変えるのではなく,どこまでが中国の領土かという話を含まない文章にしていただいたのだ。いや,その先生も日本のことは意識していたのか,尖閣諸島の記述はなかったのだが,それ以外の国との係争地域には考えが及ばなかったのだろう。

 かくして地理は政治である。本学では地理の専攻は理学研究科にあるが,大阪市大では文学研究科にあった。政治経済学的視角が生き残っている分野の一つは経済地理学だ。いずれももっともなことだ。

「アニメ映画「アボミナブル」、ベトナムで上映中止 南シナ海の地図巡り」CNN.co.jp,2019年10月15日。


2019年10月25日金曜日

改憲せずとも戦前を実現できるという『産経』の白昼夢

『産経新聞』論説副委員長榊原智氏の堂々たる論説

 「憲法第1条で天皇の地位が「国民の総意に基く」とあるのは、それゆえだ。たまたま今、生きている国民の多数決に基づくものではなく、過去、現在、未来の国民の総意の規定だととらえるべきだ」。

 いや,「主権の存する国民の総意に基づく」と書いてあるんですけど。いまの天皇は,国民主権を前提に象徴だと憲法で認められているのであって,国民主権でなかった時代の天皇は,全然別の原理だと読むのが普通ですよ。

 「立憲君主である天皇が、憲法に同居する国民主権と矛盾されるわけもない」。

なぜ。どうして。どのように。

「臣下の筆頭である内閣総理大臣が即位される天皇陛下に対して、万歳を三唱するのは自然なことだ」。

 記事のタイトルで憲法守れって言ってますよね。憲法第65条と66条で「行政権は,内閣に属する」,「内閣は,法律の定めるところにより,その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」って書いてありますよ。臣下じゃないですよ。

 榊原氏は,国民主権があろうと,憲法に何と書かれていようと,それに関係なく天皇は君主であり,それ以外の国民は臣下だと言っているのです。ならば,氏と『産経』にとって新聞の役割とは,天皇や皇室について憲法や法律の見地から,その在り方が主権の存する国民の総意に基づいているかどうかを冷静に論じることではないのでしょう。それどころか,臣下として,頭を低くし,ほめたたえ,服従することを,共産党はおろか国民誰に対しても命じるキャンペーンを張ることなのでしょう。改憲せずとも戦前を実現できるという白昼夢,いや,おそれいりました。

榊原智「【一筆多論】共産党は憲法を守れ」『産経新聞』2019年10月22日。

2019年10月24日木曜日

考えようとした『河北新報』:「即位の礼」報道

 『河北新報』の2019年10月23日付朝刊トップは「『国民に寄り添う』 正殿の儀 天皇陛下即位を宣言 各国の元首ら2000人参列」の見出し。左側に小さく「雨続き二次災害警戒」の見出し。
 総合面2-3面は「皇位継承 議論後回し 女性容認の世論とずれ」「天皇陛下お言葉 憲法巡り『順守』→『のっとり』社会情勢への配慮か」「平成踏襲 批判は封印 儀式の骨格戦前が基」などの見出しの他,「厚生年金逃れも立ち入り 厚労省検討 法改正で権限拡大」などの記事が左右に。
 社会面22面は,「天皇陛下即位礼正殿の儀」「被災者に心寄せ」「宮内庁幹部『パレード延期安堵も』」「被災者思いさまざま 見ている暇ない/元気もらえた」などの見出し。
 社会面23面は即位礼の記事はなく,「災害ごみ手付かず」「被災3県 仮置き場増設でしのぐ」「郡山 処理施設浸水でストップ 生ごみ以外の排出控えて」「『面倒見良いリーダー』宮城・丸森小野さん 住民ら急死惜しむ」などの見出し。
 正殿の儀一辺倒ではなく台風被害も大事だという判断をし,儀式のあり方を論じるべきだと提起していることは,考えた上での紙面構成と見たい。
 ヨイショ記事ばかりでは新聞の役割放棄だが,『河北』はそうなるまいと努力した。




無惨な『日本経済新聞』:「即位の礼」報道

『日本経済新聞』2019年10月23日朝刊。1面の見出しは「天皇陛下即位の礼」「『象徴つとめ果たす』正殿の儀,2000人参列」「海外の賓客を歓待」「国民の幸せと世界平和願う 天皇陛下のお言葉」。左側に細長く「離脱関連法案審議入り」と別の記事。
 総合面の2-3面もほとんど即位の礼関係で,見出しは「『祝賀外交』活発 首相,連日の2国間会談」「饗宴華やか 舞楽や和食,おもてなし」「令和の天皇像にじむ」「国民とともに世界に目線」「平成の式典を踏襲 国民主権・政教分離に配慮」。わずかに「ソフトバンクGのウィーワーク支援」の記事。
 社会面の30-31面もほとんど即位の礼関係。見出しは「列島各地心から祝福」「『助け合う時代願う』」「即位の宣明高らかに」「古来からの儀式,厳粛に」「直前に雨やみ晴れ間」「『平和への思い新たに』」など。わずかに小さく「台風の被災地 複雑な思いも」。
 新聞の役割は,何事にも冷静に距離を取って報じ,論じるというものではないのか。そういう視点がほとんどない。もちろん,見出しだけでなく中身も確かめたが感想は同じ。政府から与えられたストーリーにしたがって天皇を賛美するだけの提灯持ちのヨイショ記事が多すぎ,新聞ではなく広報に近い。ある程度覚悟して読んだのだが,それでもげんなりした。


論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...