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2019年10月21日月曜日

ヴェノナ文書への関心

 ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア(中西輝政監訳,山添博史ほか訳)『ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動』扶桑社,2019年。『ヴェノナ』文書に基づく現代史研究だ。ヴェノナ作戦とは,第二次世界大戦中の1943年から1980年に至るまで,当初アメリカ陸軍の通信諜報部(後に国家安全保障局=NSAに吸収される)によって実施された対敵諜報活動だ。具体的には,旧ソ連の諜報機関であるKGBやGRUとアメリカ国内のソ連スパイ,対ソ協力者との暗号通信を解読する作戦だった。この作戦で解読された文書が「ヴェノナ」文書と呼ばれる。1995年に公開されることにより,旧ソ連がアメリカで行っていた諜報活動の一端が明らかになった。これにより,多くの人々があるいはソ連のスパイや対ソ協力者と判明し,またそう疑われることになったためにスキャンダラスなできごととなった。

 この種の出来事は,本書の帯にあるように「アメリカはソ連の諜報活動に操られていた」という政治的キャンペーンにつながる。本書の邦訳も,帯の推薦文を書かれた江崎道朗氏がおっしゃるように「アメリカでの歴史見直しの動向も無視したまま、戦前の日本「だけ」が悪かったと言い募るような、視野狭窄(きょうさく)はもうやめようではないか」(江崎「「日本を降伏させるな」米機密文書が暴いたスターリンの陰謀」iRONNA,2018年8月15日)というところにあるようだ。

 そんな極論はどうでもよいが,ヴェノナ文書が,まともな意味でも歴史の見直しにつながることも確かだろう。私が個人的に関心を持つのは,ヴェノナ文書には,経済学者として心を動かされる名前も登場するからだ。

 その最たるものはハリー・デクスター・ホワイト,すなわちIMF設立における「ホワイト案」のその人だ。ホワイトがアメリカ共産党員ではなかったが対ソ協力者であり,情報を流していたことはかなり確定的なことらしい。これはさすがに,国際経済関係史の見直しにつながるように思う。

 世間的にはよりマイナーな,しかし私的な研究史から印象深いのはヴィクター・パーロとハリー・マグドフだ。

 パーロはアメリカのマルクス経済学者であり,日本でも多数の著作が翻訳された。私の師,金田重喜氏の最初の公表論文はパーロのThe Empire of High Financeの書評であり,金田氏はこれに『最高の金融帝国』という邦題を当てた(※)。パーロの本書は,金田氏が最も影響を受けた本の一つであった。氏は,私が学部3年の終わりの頃,研究室で「きみはまだ僕の言いたいことわかっておらんね」と言われたことがあった。そして,その翌年度のゼミの教科書にパーロ『最高の金融帝国』を指定された。1958年刊行の訳書をわざわざもう一度引っ張り出されたのは,大学院を受験する私に金融資本論を学ばせたかったからではないかと,今でもうぬぼれ半分に思っている。そのパーロは,戦時工業生産委員会内に潜むアメリカ共産党員のリーダーであり,多くの情報をKGBに流していた。これもかなり確定情報のようだ。

 ハリー・マグドフがヴェノナ文書に登場しているのは,私には意外であった。パーロの場合,アメリカ共産党員であることや,アメリカ共産党が,日本共産党が愛想をつかすほどの極端なソ連追随主義であることは学生時代から知っていたが,マグドフはポール・スウィージーとともにMonthly Review誌を担った,党派に属さないマルクス経済学者として知られていたからだ。私は,岩波新書の『現代の帝国主義』の他,スウィージーとの共著『アメリカ資本主義の動態』,『アメリカの繁栄は終わった!』,『アメリカ資本主義の危機』をよく読んだ。過剰資本論の理解は彼らに学んだところも大きい。そのマグドフも,ヴェノナ文書ではパーロ・グループの一員とされている。ただし,Wikipedia英語版によれば,マグドフは犯罪に関与していないという主張もあるそうだ。

 現在の基準ではソ連への機密文書横流しなど到底正当性を持ちえないことは言うまでもない。しかし,当時,少なからぬ人々がこのような活動に手を染めたのは,どのような動機と論理によるものだったのか。本書からしても,カネのためとか,弱みを握られ脅されたからではない。アメリカ共産党員,あるいはソ連の社会主義体制支持者として,それが正しいものと心から信じて行っていたと思われる。それは,当時のどのような社会的条件の下で,どのようなモチベーションとロジックにより選択されたのか。それが知りたい。

 もう少し歴史的に言えば,「国際共産主義運動」は,いつまでソ連を司令塔とする単一の,国際的ヒエラルキーを持つ運動だったのか。これは,Facebook友人に旧社会主義国の歴史研究の専門家がいらっしゃるので,素人が何かを言えるわけではない。しかし,関心はある。加藤哲郎氏が指摘されるように,国際共産主義運動は,今から見れば非常に特異な形を持った,国境を越えようとする運動だったのだ。私は,それが何であったのかを考えたい。

※ この時,浅尾孝氏による訳書はまだ出版されていなかったが,訳書でも邦題は同じであった。金田氏の書評での邦題を浅尾氏が採用されたのか,あるいは金田氏の方が訳出進行中の予定邦題を知っていたのかは謎である。生前にうかがっておくべきであった。

ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア(中西輝政監訳,山添博史ほか訳)『ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動』扶桑社,2019年。


2019年10月15日火曜日

派遣事業者と職業紹介事業者の労働立法への参画について

 労働分野の立法の検討は政労使または公労使の三者構成だが,労働市場の需給調整機能に関する審議は,派遣事業者または職業紹介事業者を含む四者構成であるべきだとする中村 天江氏の意見が公表された。

 ここまで労働者派遣事業や民営職業紹介事業が定着した今,傾聴に値すると思う。

 労働者派遣事業や民営職業紹介事業に対する政策が,長らく規制し,制限するという趣旨であったのは,歴史的経過から中間搾取が懸念されていたからであるが,実は企業内労働市場と,学校が職業紹介に関与するしくみによって,労働力需給調節機能が担われていたからでもある。中間搾取の懸念は今なおあるが,企業内労働市場と学校による職業紹介機能は徐々に弱体化しており,いまさら労働者派遣や民営職業紹介なしでやっていくことはできない。となれば,課題は業界の発展を抑えることではなく,現代化することだろう。

 実際,中村氏が紹介している派遣労働者の同一労働同一賃金について,当初,派遣先での類似職務に就く直接雇用労働者との同一性だけが当たり前のように議論されていたのを,労働市場の相場をもとにした派遣元での,派遣先の個別性にとらわれない同一性という基準も盛り込んだ例は重要だ。後者は派遣事業者の観点だ。つまり,よく機能する派遣事業というのは,企業横断的な同一労働同一賃金を促進するものなのである。

 労働者派遣事業をブラック職場にしてはならない。しかし,派遣事業の拡大を阻止し,縮小させようとすることはもはや非現実的であり,誤りでもある。その存在を認め,現代化を促し,労働市場の専門的担い手として活動できるようにすることが,政策の基本視点であるべきだろう。

中村天江「労働市場政策100年目のターニングポイント―「三者構成原則」のままでよいのか?」リクルートワークス研究所,2019年10月11日。

2019年10月13日日曜日

「学卒一括採用」か「対象を限定しない通年の採用」かが本来の問題だ

 「学生の4割「通年採用望まない」 採用の自由化に不安」という記事を読んで思うのだが,今の日本ではそもそも「通年採用」とは何かがあやふやだ。アンケートをする側,回答する学生,論評する記者がそれぞれ何を「通年採用」と呼んでいて,それが一致しているかどうかが問題だと思う。食い違っていると,調査が意味をなさない。

 基本的な問題は,日本企業が本来の意味の「通年の採用」に踏み切るか,そうでなく学卒者対象の就活が開始される時点をてんでんばらばらに早めることを「通年採用」と呼ぶだけなのかということだ。それがはっきりしないから,学生の認識も固めようがない。

 まず「一括採用」というのは,雇用対策法の年齢差別禁止規定の例外として新規学卒者に対象を絞り,就「職」でなく「入社」させてから,職務・勤務地を会社が命じるものだ。「学卒一括採用」と言った方がわかりがいい。必要な職務能力は採用時点で決まっていないから,漠然とした潜在能力だけを測定して採用したうえで,必要な職務能力は企業内訓練で育成することになる。

 一方,何の限定もつけずに言葉通りの意味,つまり「通年の採用」というだけの意味の「通年採用」は,特定の仕事をしてもらうために,それに必要な職務能力を持つ人を雇うというものである。当然,職務・勤務地を指定した求人になる。そして,新規学卒者に対象を絞る意味はなく,また法律上もそれは出来ず,新規学卒者から高齢者まで対象とすることになる(※)。即戦略になってもらうのであって,既に職務能力を持っているかどうかを基準に採用する。
 日本ではこうした採用は「中途採用」と呼ばれる。上で書いたような採用を新卒者以外に対してのみ行うからだ。しかし,本来,上記のような採用をして新卒者も既卒者も対象にするのが「通年の採用」だ。例えば以下の報道でトヨタやホンダが「中途採用」を拡大するというのは,言い換えれば本格的な「通年の採用」をするということだ。

「トヨタやホンダなど中途採用を拡大 即戦力の人材確保へ[新聞ウォッチ]」Response,2019年10月3日。

 だからまともに「通年の採用」をすれば学生が不利なのは当たり前のことだ。すべての年齢層の,技能のある経験者と同次元で競わねばならないからだ。それが深刻な問題なのであって,「さあて,学生はどっちを好むかなあ」などと学生の志向だけを論じる次元のものではない。

 そして,大学教員としては悩むところだが,学生に厳しいからといって,退けるべきと決めつけるわけにもいかない。この「通年の採用」は,「会社の一員として雇用するメンバーシップ型雇用」の縮小と,「特定の職務を遂行する人を雇用するジョブ型雇用」の広がりを意味する。前者は新卒者の「入社」に有利であり,中高年の正規職への再就職や転職にとって不利である。後者は逆である。だから「通年の採用」は
,非正規職しか転職・再就職できずに苦しんでいる高齢者や女性全般の地位を改善し,社会全体として生産性や公平性を高める効果がありうるのだ。今後の日本社会全体としては,そちらの方が望ましい可能性がある。

 しかし,もしかすると日本企業はこうした本来の「通年の採用」をしないという可能性もある。つまり,従来の新規学卒採用をそのまま続け,ただ単に「一括」だけを止めて,通年で少しずつ採用する,という可能性もある。はなはだしきは,いわゆる「就活ルール」を廃止したので,学生にとっての就活開始時点をひたすらはやめる青田買いを強めるだけ,ということもありうる。つまりは「通年学卒採用」だ。しかし,学生はほとんどが3月に卒業するのだから結局4月1日に「入社」するのであり,これは「一括」採用の範囲に過ぎない。就職浪人,第二新卒の部分が4月1日以外の「入社」になるだけだろう。「なんちゃって通年採用」だ。
 たとえば以下の記事が解説する「通年採用」とは「通年学卒採用」「なんちゃって通年採用」に過ぎない。「通年採用とは、必要に応じ、一年を通して新卒・中途を問わず採用活動を行うことです」と言っていてるが,職務を指定せず潜在能力だけで採用する方式を念頭に置いているので,これでは新卒者やそれに準じる相手しか対象に出来ない。

「通年採用」日本の人事部,2019年6月14日。

 この場合,個々の学生によって有利か不利化はいろいろだろう。しかし大事なことは,日本の労働市場は何も改革されないということだ。前述の「漠然とした潜在能力だけを測定して採用したうえで,必要な職務能力は企業内訓練で育成すること」は同じである。日本企業のパフォーマンスや働き方は何も変わらず,ただ就活だけが年がら年中行われるようになるだろう。

 本当の違いは「学卒採用」か「そうでない通年の採用」かだ。日本の企業自身も学生もマスコミも,「一括採用」か「通年採用」かと論じているが,暗黙の裡に「学卒採用」の範囲内で「通年採用」という言葉を使うことが多い。その一方,ほんらいの「通年の採用」を「中途採用」と呼び,学卒者が応募するものではないかのように呼ぶ。これは習慣的な日本独特の用語法であり,改革を論じる時には混乱を招きやすいので,注意した方がいい。

※これを言うと仰天する人が今でも多いことには仰天するが,応募年齢を限ること自体が年齢差別であり,雇用対策法で禁止されている。例えば,求人に「35歳程度まで」と書くのはアウトである。

安田亜紀代「学生の4割「通年採用望まない」 採用の自由化に不安」NIKKEI STYLE,2019年10月11日。


https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191012-00000004-nikkeisty-bus_all&p=2

2019年10月1日火曜日

佐藤千洋氏博士論文「アーキテクチャの位置取り戦略と製品開発組織 –電子部品メーカーの車載事業傾斜を事例とした分析-」の公表によせて

 当ゼミの後期課程修了生,佐藤千洋さんの博士論文「アーキテクチャの位置取り戦略と製品開発組織 –電子部品メーカーの車載事業傾斜を事例とした分析-」が東北大学機関リポジトリTOURに全文掲載されました。基礎になった論文は査読を経て『赤門マネジメント・レビュー』と『工業経営研究』に掲載されています。
 佐藤さんの論文の特色は,製品開発研究,アーキテクチャ研究の蓄積を踏まえ,これを一歩進める論点を提起して事例研究を行ったことです。まず,アーキテクチャの位置取りにおける依存性と戦略性の把握です。自社および顧客のアーキテクチャをそれぞれ孤立的にとらえるのでなく,相互に影響を与えあうものとしてとらえ,また経営者にとって所与として決定されるものではなく,戦略的に変化させ得るものとして把握しました。次に,アーキテクチャの位置取り戦略と開発組織の相関性の把握です。これまで自社の製品アーキテクチャと製品開発組織の相関性について研究が積み重ねられてきましたが,顧客製品のアーキテクチャを含めて開発組織との関係を論じる視点を打ち出しました。そして専業電子部品メーカーのイリソ電子と総合電子部品メーカーのアルプス電気の車載事業傾斜について比較事例分析を行いました。

<博士論文>
佐藤千洋「アーキテクチャの位置取り戦略と製品開発組織 –電子部品メーカーの車載事業傾斜を事例とした分析-」
http://hdl.handle.net/10097/00125764

雑誌掲載論文
佐藤千洋(2018)「総合電子部品メーカーのアーキテクチャ戦略と開発組織の適合性 : 車載市場への傾斜を踏まえて」『工業経営研究』32(1), 16-27。
https://ci.nii.ac.jp/naid/40021581969
佐藤千洋(2018)「電子部品産業における専業メーカーの競争優位:アーキテクチャ戦略と製品開発体制の適合性の観点から」『赤門マネジメント・レビュー』17(3), 111-130。
https://doi.org/10.14955/amr.0170607a

国際会議報告
Chihiro Sato (2016), A Study on the Business Strategy of Highly Profitable Electronic Component Manufacturers, Proceedings of the 2016 International Conference on Industrial Engineering and Operations Management
Kuala Lumpur, Malaysia, March 8-10, 2016.
http://ieomsociety.org/ieom_2016/pdfs/136.pdf

学会報告
佐藤千洋(2015)「高収益部品メーカーにおける製品戦略 : キーエンスとヒロセ電機の比較」『イノベーション学会年次大会講演要旨集』30(0),2466-469。
https://doi.org/10.20801/randi.30.0_466

2019年9月29日日曜日

インド人の流入・流出の効果を考えるには,そのハイスキル比率の高さと,日本におけるICT人材の不足を念頭に置いた方がいい

この記事のタイトルにある「優秀なインド人」の実態を考える一つの切り口として,在日インド人の構成を考える。2018年12月現在の中長期在留インド人は3万5419人で,在留外国人の1.3%を占める。問題はその内部構成だ。誤差を承知で在留資格の種類により,経営者,ホワイトカラー,専門家の比率をハイスキル比率として推定してみる。すると,外国人全体では11.3%がハイスキル者ということになるのだが,インド人の場合,30.1%がハイスキル者なのだ。総数が1万人を超える出身国・地域で,インドよりもハイスキル比率が高いのは,フランスの31.1%,英国の34.1%,カナダの32.8%,米国の34.4%だけだ。先進国以外の主要な出身国・地域では,インドは最高のハイスキル比率を示しているということだ。
 人間の人間としての尊厳は誰もが平等という前提を置いたうえで,労働市場への影響を考える時には,外国人労働力の性質については注意を払わざるを得ない。インド人のハイスキル比率の高さを念頭に置いて,その日本への定着・日本からの流出の効果を考える必要がある。インド人は人手不足のICT関係職に就くことが多いので,求職において日本人と競合していない。そのため,定着してくれることによって日本初イノベーションの可能性を広げてくれるし,流出することは日本経済にとってスキルの損失になると私は考える。

※教授,芸術,宗教,報道,高度専門職1号イ,ロ,ハ,高度専門職2号,経営・管理,法律・会計業務,教育,技術・人文知識・国際業務,企業内転勤,特定活動(特定研究及び情報処理・本人),特定活動(高度人材・本人)をハイスキル者とみなした。言うまでもないが,この方法には特別永住者や永住者のハイスキル者をカバーできないなどのエラーがある。

石川奈津美「「優秀なインド人が日本から流出している」江戸川区議に初当選したよぎさんが語る在日インド人のリアル」BLOGOS,2019年9月24日。

2019年9月22日日曜日

L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準

 前回のノート(2)では,財政赤字によるカネのクラウディング・アウト,すなわち金利高騰は生じないことを論じた。だからといって,金利が政策変数として役に立たないわけではない。レイ教授も,債務の爆発的上昇を避けるために,政府は自ら支払う金利を経済成長率より低く保たねばならないことは認めている(『MMT』149ページ。以下ページ番号は本書のもの)。ただ,政府債務を増やすたびに金利上昇が生じることを心配しなく良いので,金利を低く保つことは,常識的なマクロ経済学が想定するよりもずっと容易だ。
 では,カネのクラウディング・アウトは心配なく,また自国の主権通貨建て債務のデフォルトはあり得ないとして,それ以外に財政赤字を制約する条件はないだろうか。もちろん,ある。インフレ率と為替レートだ(『MMT』219ページ)。インフレーションは財・サービスや労働力に対する自国通貨の価値,為替レートは他国通貨に対する自国通貨の価値を変化させるからだ。レイ教授はこれらのことをはっきり認識している。MMTは財政赤字を無限に増やしてよいとする奇説だという非難は,いいがかりである。
 ここでは二つの要因のうちインフレを取り上げ,MMTにおけるその位置づけを考える。二つのことを一度に取り扱うのは困難だからでもあるが,インフレの方が財政赤字の根本的な限界に関わっているからだ。それは,利用可能な資源の有限性ということだ。
 日本ではデフレが長く続いてきたため,悪性インフレの心配が当面の問題にならない。そのためMMTをめぐっても,ハイパーインフレの恐れのあるなしという極端な場合についての議論だけが飛び交い,MMTにおけるインフレの理論的位置づけという課題は後景に退いてしまっている。私は,これは望ましくないと思う。本来,インフレはMMTにおいて非常に重要な理論的位置を与えられていると思うからである。

 さてレイ教授は冥王星探査ロケットの例を挙げて,政府が支出する際に考慮しなければならない要因を列挙している(『MMT』356-360ページ)。少し抽象化して整理しよう。
 第一に,そもそも政府が購入できる財・サービスや,雇うことができる適切なスキルを持った人が必要なだけ存在するかどうかだ。当たり前のことだが,重要だ。
 第二に,そうした財・サービスや人がの別の用途との競合による機会費用の発生だ。他の用途との競合は資源の争奪戦,つまり賃金や購入価格の引き上げ合戦を引き起こして,望ましくないインフレを生じさせるかもしれない(それに,輸入増を引き起こして為替レートにも影響するかもしれない)。
 第三に,民間経済主体に与えるインセンティブや公平性の問題や価値判断として望ましくない支出拡大があるかもしれない。
 この1番目と2番目の要因については,「財政赤字によるモノとヒトのクラウディング・アウトは起こり得る」と表現することはできる。政府支出を強行すれば,民間の支出が実行困難になるからだ。前回述べたように,政府が負債を増やすことを金融市場から制止される危険はない。けれど,政府支出を増やすことを財市場と労働市場から制止されることはあり得るのだ。 
 MMT批判を意識した,別の言い方をしよう。財政赤字について,しばしば,というか千年一日のごとく飽きもせずに「ない袖はふれない」,「フリーランチはない」という主張がなされる。前回論じたように,MMTの独自の貢献は,カネの面ではそういう制限は実はないと明らかにしたことだ。しかし,財・サービスや労働力については,確かにない袖は振れず,フリーランチはない。主権通貨(政府の債務証書)はすぐにでも大量に発行できるが,ないモノは買えないし,別のところで働いている人を引き抜くのは困難で,望ましくないかもしれない。その問題性はインフレ率として表現される。これは,本来すべてのケインズ派が認めるところだろうが,MMTもまた認めているのだ。
 レイ教授の表現ではこうなる。「問題は,支出能力に関するものではないし,そんなものはそもそもあり得ない。問題は資源に関するものである」(『MMT』439ページ)。

 以上のことから,常識的なマクロ経済学とMMTにおける,財政政策の原則に関する類似点と相違点が確認できる。
 いずれも,完全雇用の達成を政策目標とすることは同じである。しかし,常識的なマクロ経済学では,ここで二つの制約がかかる。一つは,1)「金利」を指標にしてカネの面から財政赤字の限度を考えねばならないことだ。この制約がかかることにより,しばしば完全雇用達成以前に財政が緊縮に転じてしまう。あげく,EMUのように雇用情勢に関係なく財政赤字のGDP比率に枠をはめたりする。もう一つは,2)「インフレ率」を指標にしてモノとヒトの面から財政赤字の限度を考えねばならないことだ。インフレ率が高かった1970年代には先進国でもこちらが問題になったし,現在でも途上国ではこの論点が問題になる国もある。そして,物価安定が完全雇用より優先されてしまう場合もある(『MMT』478ページ)。
 MMTは,前回ノート(2)で述べたように,1)の制約条件は虚偽であって,気にする必要ないと主張する。しかし,2)の条件についてはその必要性を認める。むしろ,1)の制約は無視してよいとされる分だけ,2)の制約が非常に重要になるのがMMTの財政政策だと理解すべきだろう。そして,MMTは2)に対して,あくまでも完全雇用を追求し,その実現前に悪性インフレを起こさないようにという観点からアプローチするのだ。

 MMTはインフレなき完全雇用という目標を降ろさない。その際,カネのクラウディング・アウトや金利高騰は心配しないが,モノとヒトのクラウディング・アウトとインフレは厳重に警戒する。これが,財政政策の根本基準となる。では,MMTの観点からは,より具体的にどのような政策を実施すべきだと言うことになるだろうか。すでにレイ教授によって提案されている雇用保障プログラムや「悪」に課税せよという税制論は,この目標や基準と関連して主張されているのだろうか。これらが次の検討課題となる。

<連載>
「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日。
「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(1):信用貨幣,そして主権通貨の流通根拠」Ka-Bataブログ,2019年9月3日。

<出版社ページ>
L・ランダル・レイ(島倉原監訳・鈴木正徳訳)『MMT 現代貨幣理論入門』東洋経済新報社,2019年。


個別企業がM&Aに「投資」しても社会的には「縮み志向による投資の停滞」が終わるわけではない

 『日経』本紙13版,2019年9月21日1面記事「日立,成長へ1兆円調達」。「これまで日本企業は借金返済を優先し,投資などは抑制してきた。そうした『縮み志向』を抜け出す企業が増えていく可能性がある」との指摘。だが,その紙面に掲載されていた以下のグラフを見て欲しい。




 日立は確かに設備投資は1.6兆円から1.8兆円規模に増やそうとしているが,同時にM&Aなどを0.5兆円から2.5兆円に増やそうとしているのだ。日立が株式市場からROE(自己資本収益率)の観点で評価されるためには,設備投資よりM&Aの方が効果的だという判断からこのような比率になるのだろう。
 確かに日立という個別企業にとってはどちらも「投資」だ。しかし,社会的に見れば(海外投資は国内に投下されないという点はさておくとしても),M&Aは純投資ではなく,資産の持ち手変更のために株式と現金を交換するに過ぎない。こうした動きが広まっても,日本経済への効果としては「縮み志向による投資の停滞」が直接に変わるわけではないのだ。
 もちろん,M&Aによって資産が有効に活用されて利益を生むようになり,その資産をもとにした設備投資も間接的に拡大することはありうる。しかし,それは時間のかかる話だ。また,たとえ個別企業にとってM&Aが成功した場合でも,収益性の高い他社事業をただ傘下に取り込むだけだと,やはり社会的には投資は増えない。M&Aが見込み違いで失敗した場合は言うまでもない。
 M&Aは個別企業にとっては「投資」でも,社会的には(マクロ経済的には)そうではないことに注意しなければならない。

「日立,成長へ1兆円調達 守りから攻めの財務に 22年3月期まで M&A・設備投資向け」『日本経済新聞』2019年9月21日。



論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...