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2020年9月25日金曜日

「専門家」と「専門性」と素人の意義について:内田樹氏と岩田健太郎氏の対談に思う

 内田樹・岩田健太郎「『素人がコロナを語ると専門家が怒る』という日本は明らかにおかしい」MSNニュース,2020年9月23日を読んで思ったこと。あらかじめ断っておくが,両氏を褒め称えたいのでも貶したいのでもないので,それだけを好む方はお読みにならない方がいい。

 私は「専門家」支配は一面的で問題だが,「専門性」無視もだめだと私は思う。素人考えは誤っていることも多いのでその通りにする必要はないが,素人が主張する状況を無視することも不適当だと思う。

 「専門性」は必要であって,それがないと何事も実効性ある対策はできないし,客観的な評価に耐えられない。イノベーションが狭っくるしい短期的な評価「主義」になじまないのは確かだが,多角的にであれ「評価」自体はされねばならないのであって,コロナやコロナ対策についての評価を「放っておいて」何かが起こるともよくなるとも思えない(例えば,PCR検査をめぐる議論には,適切な評価と対応が必要だ)。この点で,岩田氏と内田氏が専門家批判に集中して専門性の尊重を言わないのは偏っていると思う。

 ただし「専門家」以外を頭から排除してはならない。専門家は,絶えず専門性を発揮することにおいて尊重されねばならないのであって,その肩書によって尊重されるべきなのではない。また,専門家の行動にも特有の盲点がある。専門の業界やそれと結びついた政府の政策に議論のフレームをはめられてしまい,同じフォーマットで言説と数字しか流さなくなって変化する社会状況に対応しなくなること,科学性を尊重するあまり,完全に証明されていないことについて,求められている判断を下さないことだ(例えば,2011年4月に,「原発事故後も××キロ離れた○○市に1か月住んでいたら深刻な健康被害が出るかどうか」という多くの人が気にしている問題を立てて発言してくれる専門家がいなかった)。この点での専門家の限界,多様な状況に即して専門家以外がリアルな観点と意見を持ちうることについての,両氏の指摘はもっともだと思う。確かに「子どもたちは傘を差して登校する」などのアイディアは,専門家でなくても思いつく可能性があるのだ。

 もう一つ。素人の主張について考えるべきは,それが正しいかどうか「だけ」ではない。両氏は語っていないが,そこも大事だ。間違っていることを含め,少なくない人があることを言わずにいられない(例えば,大量のPCR検査を求めずにいられない)心境と,その人々をそのような心境にさせる社会状況を重視すべきだ。政策担当者などの実践家は,専門性を欠く素人が主張することをそのまま実行する必要はない。しかし,おおぜいの素人が主張せざるを得ない状況には,必ず解決すべき問題が含まれているのであり,実践家はそこに適切に対応しなければならない。


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