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2021年2月2日火曜日

現代の通貨システムとは「返済されない債務」が流通する世界のこと

  現代の通貨システムには,多くの人の直感に反するものがある。そう言って悪ければ,普段イメージしているものが適切でなく,別のイメージに取り替えねばならないところがある。その最たるものが,通貨システムを,金貨や銀貨のような価値ある本位貨幣か,あるいは国家が強制通用力を付与したものが流通しているとみてしまうことである。そのようにイメージすると,認識を誤る。

 では,どうイメージすべきなのか。それは「債務が流通している」というものである。イメージしにくければ「債務証書が流通している」,「われわれは,債務証書で売り買いし,貸し借りしている」でもいい。債務証書で売り買いするというのは,企業が手形によって掛け売り,掛買いしているのをイメージすれば,おかしくもなんともないことがわかるだろう。現在の通貨システムとは,手形流通が銀行と中央銀行によって高度化した世界なのである。中央銀行券も中央銀行預金も民間銀行預金も信用貨幣=債務証書である。コインだけは政府が強制通用力を付与した国家貨幣であるが,主要な通貨ではない。

 では,なぜ債務証書が流通するのか。それは,中央銀行や銀行は,自分あての債務証書を発行して取引を行うからである。企業が手形を振り出して物を買うことを考えれば,何もおかしくない。信用のある債務証書ならば流通するのも手形と同じである。

 では,債務証書はどのように流通に出入りするのか。中央銀行や銀行は,手形で物を買うのではない。自己宛て債務証書で貸し付けや信用代位(既発行債券の売買)を行うのである。だから銀行券も預金通貨も,主要には民間経済がそれを必要とするときに,貸し出しによって流通に入る。そして返済によって流通から出る(※1)。マルクス風に言えば貨幣流通法則に従う。ただし金貨のような本位貨幣と異なり,蓄蔵されることはない。回収された債務証書は消滅するのである(例:日銀に戻った1万円札は1万円の資産になるのではなく,ただの紙になる)(※2)。ただし,政府が国債を発行した場合は別で,民間経済の必要とは独立に政府によって流通に投げ込まれる。この分は,課税や特別の回収措置を取らない限り,出てくることはない。マルクス風に言えば紙幣流通法則にしたがう。これは,強制通用力を持った国家紙幣や政府発行コインの場合と同じである(※3)。

 多くの人がこのイメージを抱きにくいのは,直感的に「債務証書ならば結局返済しなければならず,いつまでも流通しないはずだ」と思われるからである。もちろん,企業活動がうまくいっていれば,銀行貸し付けは返済される。債券による借り入れも,満期になれば返済される。対して中央銀行券や中央銀行預金や,民間銀行預金はどうかが問題である。

 民間銀行預金はもちろん返済される。預金者が民間銀行の預金を下ろせば,中央銀行券に交換される。これはつまり,債務を,より信用度と流通性の高い債務で返済するという行為である。この理屈はあらゆるところに適用される。企業は手形の期日に,取引先銀行の預金通貨や,現金=中央銀行券で支払う。また,別銀行への銀行振り込みはすべて民間銀行間の債権債務となり,これは,日々,中央銀行当座預金口座を通して決裁されている(※4)。

 それでは,中央銀行券と中央銀行預金という,中央銀行の債務はどのように返済されるか。債券と債務の相殺ならは可能である。中央銀行に債務を負うものは,中央銀行券や中央銀行預金で返済することができる。しかし,中央銀行に対して純債権を持つものはどうなるのか。金兌換が行われていれば,中央銀行に中央銀行券を持ち込めば金に替えてくれるかもしれない。しかし管理通貨制のもとではそれは行われない。中央銀行預金は,おろせば中央銀行券に変わるし,中央銀行券を預ければ中央銀行預金にはなる。しかし,それ以上のことはない。中央銀行券と中央銀行預金は「返済されない債務」である。それ以上,上位の債務が一社会内部にはないからである。

 そうすると,債権者が中央銀行に大挙して押しかけ中央銀行券や中央銀行預金証書を突き付け,「とにかく何かで返済せよ」と迫ることはあり得ないのかという心配が起こるかもしれない。しかし,もともと中央銀行券や中央銀行預金は,中央銀行の信用供与によって発行・設定されていることを忘れてはならない。個別には,中央銀行に対する純債権をもつ銀行も存在し得る。しかし,社会全体としては,何らかの理由で中央銀行の資産価値が毀損されて債務超過に陥るのでない限り,中央銀行券発券高や中央銀行預金残高という中央銀行の債務と,中央銀行が貸し出しや債券保有によって持つ債権はつりあっているのである。だから,経済の運行が正常であれば,社会全体として見れば,中央銀行に対する純債権者が返済を迫るようなことは起こらない。起こるのは,せいぜい中央銀行に対して持つ債務を返済するにあたり,中央銀行券を使わせろという要求であり,それは債権債務の相殺として当然に認められるのである。

 つまり,管理通貨制とは,中央銀行券と中央銀行預金という,返済されることのない債務証書が延々と流通するしくみなのである(※5)。この「返済されない債務が流通する」ことがイメージできないと,管理通貨制を正しくモデル化することはできない。

 返済されない債務証書なら紙切れと同じで,強制通用力によって流通する国家紙幣と同じだと考える人がいるかもしれない。しかし,そうではない。不換の中央銀行券も,貸し付けによって流通に入り,返済によって流通から出る。民間経済の必要に応じて流通に入り,返済によって退出することができる。債権と債務の相殺を担うことができる。ここが国家紙幣とは全く異なるのである。また中央銀行券が紙きれならば企業の手形も紙切れになり,一切が紙切れで国家権力による虚構だということになるが,それでは経済的分析の放棄だろう。

 この「返済されない中央銀行の債務」が信用を保てるかどうかが,管理通貨制における通貨の安定を左右する。中央銀行の債務は返済を迫られることはないが,信用を喪失することはあり得る。信用を喪失した時に起こるのが悪性のインフレーションであり,為替レートの急落である。

 なお,以上の認識は,マルクス信用論において不換銀行券を信用貨幣と理解する学説の延長線上にあるものである。貸し付けることによって預金が創造されるとする点,中央銀行券,中央銀行預金通貨,民間銀行預金通貨が信用貨幣であるという点はMMT(現代貨幣理論)とも一致する。中央銀行のオペレーションの捉え方,債務の階層性の把握はむしろMMT(現代貨幣理論)から学んだものである。ただし,国家紙幣は信用貨幣ではないとする点はMMTの少なくとも一部とは異なり,また商品貨幣論の想定から出発し,その発展形として発券集中と管理通貨制を捉える点もMMTと異なる。

※1 ただしこれは当座預金についての話である。これとは別に,企業や個人は,一時的に必要としないお金を貯蓄性預金として銀行に預ける。当座預金は貸し付けによって出現するが,貯蓄性預金は,貸し付けられて流通している信用貨幣の一部が銀行に預けられるものである。

※2 中央銀行券を,強制通用力のある国家紙幣と考えようと信用貨幣と考えようと大した違いはない,と考える経済学者がいるが,誤りである。政府が国債を発行しない状態においては,信用貨幣は民間経済の必要に応じて流通量が決まり,国家紙幣は政府の行為によって流通量が決まるのであって,運動の原理が全く異なるのである。中央銀行券を信用貨幣とみるか国家紙幣とみるかは,そこから先の議論を大きく分岐させる。

※3 実際の動きは各国の制度による。日本のコインは,政府が財政支出によって流通に投げ込むことはできない仕組みになっている。

※4 日常的なイメージでは「A銀行からB銀行に送金する」というが,直接送金されているのではない。A銀行の預金通貨はB銀行の口座には入らない。A銀行に債務,B銀行に債権が計上され,これが両銀行が持つ日銀当座預金でA銀行からB銀行に送金されることで決済されるのである。

※5 単純化のため「流通」と一括したが,民間経済内では中央銀行券のみが流通し,中央銀行当座預金は民間経済の流通外にあって運動する。実務用語で言えば,前者はマネーストックの世界,後者はマネタリーベースと政府預金の世界である。

2021年2月19日加筆。

2021年2月1日月曜日

銀行はキーストロークで通貨を創造できるが,政府はそうではない:過度な「統合政府」論に反対する

 私は管理通貨制下の通貨を信用貨幣と理解する点でMMTに賛同するし,この「政府は好きなだけお金を刷っていいの? だとしたら、なぜ税金は必要なの?」という記事でケルトン教授が13歳のエイミーさんに解答していることのうち2番目と3番目に特に異論はない。つまり,課税の本質のひとつはインフレ対策であり,政府債務はインフレが起きそうになるまでは拡大して良く,インフレを起こさないためには人や設備,生産力を確保しなければならない(※1)。しかし,以下の1番目の回答はおかしいと思う。

(引用)--

Q:政府は好きなだけお金を作る(刷る)ことができるのか?

A:政府が扱うお金とは、概ねキーボードでコンピューター上に打ち込むものに他ならない。例えば、空母が必要だとすれば、空母を作る人たちにお金を打ち込むだけで、その金額分のお金をいちいち刷っているわけではない。

 なので、この質問は「政府は欲しいものを買う余裕があるのか」と言い換えることができ、それに対する答えは「イエス」。

--

 ケルトン教授は,政府がキーストロークで通貨を創造して,それで支出を行うことができるという。これは政府と中央銀行を合体して統合政府とみなせるならば正しい。MMTに限らず,一定の事項について,一定の条件下で統合政府を語ることは理論的にもっともだ。しかし,現実のほとんどの国において,政府と中央銀行は別組織である。両者が別建てであることは,財政支出を考えるときどうでもよいことではない。

 中央銀行は,確かにキーストロークで通貨を創造できる。そして,それは自己の資産を創造するのではなく,自己宛ての債務,具体的には中央銀行預金を創造するのであって,その支出は金融取引,つまりは貸し出しや債券の購入に限られている。例えば民間銀行に貸し出しをし,民間銀行から国債を買う。中央銀行は,銀行であるがゆえにこうした「自己宛て債務による信用供与や信用代位」が当然に可能なのである。

 対して,中央銀行ではない狭義の政府は,多くの場合,通貨創造の主要な担い手ではない。もちろん硬貨や政府紙幣を発行することはできるが,その形式は多様である。理論的には,政府は硬貨・政府紙幣に強制通用力を付与し,架空の資産価値を付与して発行することもできるし,政府債務として発行することもできる。日本政府のように,硬貨は政府にとって資産価値を持つものの,生み出した硬貨で財政支出することはできない仕組みになっている場合もある(※2)。このように,狭義の政府による通貨発行権は多様であるが,しばしば制限されている。なぜ制限されていてかつ多様なのかというと,たいていの場合,通貨発行の主要な担い手は中央銀行と想定されているからであり,また狭義の政府は銀行の原理で動いていないからである。

 ケルトン教授は,この違いを本質的でない,どうでもよいものとみなしている。だが,私にはそうは思えない。政府と中央銀行は,一定の条件下では統合政府とみなしてよいものの,別の役割を持つ,別の性質を持つ組織とみなすべきだ。中央銀行は,キーストロークで当然に通貨を創造できる。それはよい。しかし,狭義の政府は当然にはそれはできないとみなすべきだろう。

 だから,狭義の政府が大砲に対してであれバターに対し手であれ支出しようとすれば,その支出は,硬貨や政府紙幣ではなく,中央銀行券か中央銀行預金で支払わねばならない。現実を説明するモデルでは,まずもってそう想定すべきだ。この場合,たとえば政府は小切手で業者に1億円を払うことはできる。しかし,その小切手は大砲メーカーまたばバターメーカーが民間銀行に持ち込み,民間銀行は政府に支払いを要求し,中央銀行が,1億円を中央銀行に政府が持つ預金から民間銀行が持つ預金へと移動させるだろう。だから,政府預金が無尽蔵にあるのではない限り,狭義の政府は,歳入を超える支出のためには,国債を発行して資金調達しなければならないのである。

 国債発行によって政府債務が増大する。民間銀行は低成長時代には過剰準備となっている中央銀行当座預金を取り崩して国債を引き受ける。それが難しそうならば,中央銀行が事前に既発債を購入するか事後に引き受け銀行から購入して,キーストロークで必要な当座預金を供給するだろう。この政府債務が国内通貨建てである限りデフォルトしないことは,MMT派とケルトン教授の言う通りである。

 しかし,債務がデフォルトしないからと言って,「政府はキーストロークで通貨を創造して財政支出ができる」のではない。「中央銀行が過去または現在にキーストロークで創造した通貨が裏付けとなれば,政府が赤字支出し続けられる」というべきであり,これ以上省略して中央銀行と政府を一体とみなすことは適切ではない。中央銀行と狭義の政府は別の原理で動く別組織である。確かに両者は,多くの場合は協調する。しかし,それぞれの制度的制約の中でそうするのであり,またいつでもどこでも100%協調する保証はないのである。

 MMTが,理論的にそうみなすべき時に統合政府を持ち出すのは良いとしても,「政府はキーストロークで通貨を創造して財政支出ができる」というのは過度な単純化であり,現実の財政を論じる際には不適切だろう。

※1 ただし,インフレまたはバブルになるまでは,というべきだろう。バブルも警戒しなければならない。

※2 日本政府は発行した硬貨を日銀に交付する。このとき,政府の日銀に対する預金は増えるが,これは政府当座預金とは別口の預金になり,政府が財政支出に用いることはできない。以下を参照。
渡部晶(2012)「わが国の通貨制度(幣制)の運用状況について」『ファイナンス』8, 18-31。


「13歳の疑問に対する,経済学者のまさかの回答 政府は好きなだけお金を刷っていいの? だとしたら、なぜ税金は必要なの?」COURRIER Japon, 2020年1月30日。



給与デジタル払いの意味するものは,銀行業界内部における集中と,電子マネー業者への情報の移動である

 「 給与デジタル払い21年春解禁、銀行口座介さず 政府方針【イブニングスクープ】」『日本経済新聞』2021年1月27日。給与をスマホの支払アプリに振り込めるという話。労働法上の問題など(特定のアプリの仕様を会社から強制されないかなど)もあるが,とりあえずこの『日経』記事の論評には何かずれたものを感じる。

(引用)「給与の支払いが資金移動業者にうつれば、銀行のビジネスモデルが揺らぐとの見方がある。たとえば新卒社員は入社時に銀行口座を作り、そのまま利用し続ける人も少なくない。銀行口座を作らず、デジタルマネー支払いを選ぶ人が増えれば、銀行の顧客基盤が縮小する」。

 これは,「ある特定の銀行にとって」「顧客基盤が縮小する」という意味では正しい。たとえばある地方の企業が,給与振り込みをメイン取引銀行の地方銀行である七夕銀行を通していたのをやめ,大手資金移動業者(電子マネー業者)のX Payを使うようになったとする。これにより,七夕銀行(仮名)が給与振込口座を獲得できなくなるということはありうる。

 しかし,「銀行全体にとって」「顧客基盤が縮小する」かどうかは要検討である。実は,預金が縮小することはない。企業Aが給与をメイン取引銀行だった七夕銀行の口座振り込みからX Pay支払いに変えるということは,企業AがX Payに法人アカウントを持ち,X Payに給与を振り込むということだ。このとき,給与のお金は見かけ上,企業Aの七夕銀行口座→企業AのX Pay口座→従業員のX Pay口座と動き,銀行預金が流出したように見えるが,その背後では企業Aの七夕銀行口座→X Pay社の取引銀行(ビッグ銀行とする)口座と移動している。なので,銀行預金の総量は何ら減少していない。ただし,七夕銀行の預金は縮小し,X Pay社の取引銀行,おそらくは大手都市銀行であるビッグ銀行の預金は拡大している。そして,こうした取引を繰り返すならば,やがて企業Aは給与支払い分のお金は普段からX Payに置いておこうという考えるようになり,メインの取引銀行をビッグ銀行に変えた方がいいと思うかもしれない。

 そしてもうひとつ,従業員たちの取引情報は誰が把握するかという問題がある。従来は,銀行口座を通して七夕銀行が把握してきた。これが,七夕銀行であれビッグ銀行であれ銀行には把握できなくなり,かわって資金移動業者であるX Pay社に把握されるようになるのである。

 つまりここで起こるのは,まず,地方の中小規模銀行が預金を失い,大手資金移動業者が口座を置いている大手銀行が預金を獲得するということであり,やがて金融取引全般が大手銀行に集中するということである。そして,銀行預金の総量は減っていないにもかかわらず,小口客の取引情報を握るのが銀行から大手の資金移動業者に変化するのである。

 預金は銀行から流出しないが銀行業界内部で集中する。情報は銀行業界から資金移動業界に移動する。このように見通すべきではないか。


2021年1月25日月曜日

次年度の学部ゼミテキストは遠藤環・伊藤亜聖・大泉啓一郎・後藤健太編『現代アジア経済論:「アジアの世紀」を学ぶ』有斐閣ブックス,2018年

 次年度の学部ゼミ最初のテキストは遠藤環・伊藤亜聖・大泉啓一郎・後藤健太編『現代アジア経済論:「アジアの世紀」を学ぶ』有斐閣ブックス,2018年とした。今年度は後藤先生の『アジア経済とは何か』と塩地洋・田中彰両先生編著の『東アジア優位産業』を読んだので,その流れに沿っての選書である。前年度にちゃんと勉強したはずの新4年生は新3年生をきちんとサポートせよ,という建前も成り立つ。

 今年度の反省点としては,「アジア」を論じるはずが,学生の思考が「日本とそれ以外」という風に向かってしまいがちだということだ。そして,「日本は高付加価値で高品質の分野に集中し……」という永遠の回転木馬に流れてしまう。いや,実際にそういうことが起こっている産業ではいいのだが,よくわからない,調べてないけど,こう言っておけばいいんだろ的になると問題である。

 その点,本書は「アジア化するアジア」「生産するアジア」「移動するアジア」「都市化するアジア」「老いていくアジア」といったように,「アジア」そのものが切り口になっていることを特徴としている。次年度は「他のアジア諸国に対する日本」でなく「アジア」を考えるために,本書の構成と切り口を活用させていただきたい。もちろんそれは,「アジア」の経済・社会がどこでも同じだという意味ではないし,本書もそんなことは書いていない。「アジア」は現実においてダイナミックな経済・社会変容の場であり,その変容を捉えるための思考の単位であろう。



2021年1月22日金曜日

中島裕喜『日本の電子部品産業:国際競争優位を生み出したもの』名古屋大学出版会,2019年を読んで

 中島裕喜『日本の電子部品産業:国際競争優位を生み出したもの』名古屋大学出版会,2019年。大きなところでは,1)戦後日本の電子部品産業において,戦前からのラジオ生産や戦時中の電波兵器製造で獲得した技術的能力が継承されていたこと,2)分野別の技術的イニシアチブは,戦後少なくとも1950年代まではセットメーカーよりも部品メーカーにあったこと,3)上記二つの事情もあって,当初は規格品の市販による供給が主流であり,やがて完成品メーカーとの長期相対取引によって特注品を供給する度合いが強まるが,それでも自動車部品産業ほどではなかったことが実証的に解明されていた。現状分析のところも「日本経済」講義の参考になるもので,本書で使用されている資料をさっそく注文した。個人的には,大阪・日本橋電気街の起源が出てくるのも楽しかった。日本のサプライヤー・システムを論じようとする研究者が,自動車部品産業の事例だけを見て一般化する誤りを避けるために読むべき本だ。



2021年1月6日水曜日

ジェラルド・A・エプシュタイン(徳永潤二ほか訳)『MMTは何が間違いなのか?』東洋経済新報社,2020年を読んで

 ジェラルド・A・エプシュタイン(徳永潤二ほか訳)『MMTは何が間違いなのか?』東洋経済新報社,2020年。原題もGerald A. Epstein, What's wrong with modern money theory?なので邦題は間違っていないのだが,内容はタイトルとちょっと違う。もともとあったのに邦訳では省略された副題A policy critiqueというニュアンスが重要だ。本書は実際には,「実際の経済政策に応用しようとしたらMMTには何が足りないのか?」を明らかにしようとしているのである。著者は進歩主義的マクロ経済政策の研究者であり,公共投資と社会保障のために必要な財政支出は行うべきという立場を取っている。その点においてはMMTと同じ方向を向いている。しかし著者によれば,MMT論者は,制度的要因を無視して抽象理論から政策的主張をいきなり導いたり,本来自ら持っている理論的枠組みを当面の政治的主張のために無視したりするという問題を持っており,その弊害は無視できないというのである。

 詳細は本書にぜひ当たっていただきたいが,私は著者のMMT政策論批判は,おそらく妥当であると思う。おそらく,というのは,私がMMTの研究者がアメリカでどのように政策を論じ,とくに政治的な論戦の場でどのように対抗理論と切り結んでいるかについて詳しい知識を持たないからである。しかし,著者がMMT論者の主張を正確に読み取っている限りにおいて,その批判は正しいように思える。私は,MMTについて,貨幣の本源的理解は同意できないものの(※),信用貨幣論と内生的貨幣供給論による中央銀行券論を肯定している。にもかかわらず著者に賛同できるのは,著者もまたMMTの貨幣理論や銀行理論を根本において否定していないからである。その上で,著者がMMT論者の,抽象理論から規範的な政策論を導く際の論理と実証の弱さを批判していることは,もっとなように思えるのだ。

 とくに私は,日本のMMT論者の政策的主張でも手薄なところについての著者の批判を重視したい。列挙してみよう。
 第一に,MMTが抽象的な次元で統合政府を論じるのは良いとして,現実の制度の上で政府と中央銀行の間の政策協調が実現するかどうかは別問題だということである。当然,個々に制度分析と制度改革論が必要になる。
 第二に,財政拡張がインフレを招いた場合に,どのようにして支出削減や増税という政策転換を行うのかということである。安定した税の制度と運用を確保しながらこれを行う方法を開発しないと,こうしたファイン・チューニングは実行できないだろう。
 第三に,MMT論者は変動相場制の自動調整機能を信頼し過ぎている。発展途上国の通過に対して,投機的な資金の動きがインフレ率と乖離した為替相場の急落をもたらすおそれについて無警戒過ぎる。
 これは第四に,米ドルについてさえいえる。在外ドル資産がどれほどあり,それらを他の通貨で持ち替えようと動きがどれほどあるかによって,ドルの地位も左右される。
 第五に,MMT論者はミンスキーの支持者であるにもかかわらず,「金融不安定仮説」に無頓着である。これは通貨発行権を持つ政府の債務創出はヘッジ金融にしかならずポンツィ金融になる心配がないと考えるからかもしれないが,だからといって通貨供給量の拡大が民間におけるバブルに結びつく危険性は無視できない。MMTは,理論的にはその危険性を認識しうる枠組みだが,政策的考察が弱い。第三,第四の点とあわせて言えば,MMTでは金融規制への関心が弱い。
 第六に,MMT論者は,その理論的枠組みにおいてはフリーランチがありえないことを認識しているのに,政治的主張の場でそうでないかのように主張している。MMTにしたがっても,財政拡張によって完全雇用に達した後は資源を何に用いるかについてトレードオフとクラウディング・アウト(その表現としてのインフレ)が生じる。ところがMMT論者は,政治的主張の場において,あたかも財政赤字が誰にも何の犠牲ももたらさずに利益だけを実現できるかのように主張している。

 以上,やや大胆に著者によるMMTの政策論批判を要約した。著者の批判は破壊的批判でなく,MMTが実践に寄与するためには何を充実させねばならないかを指し示した,建設的批判である。MMTの理論に立って政策論を構築しようとする際に,聴くべき重要な警告であると思われる。

※MMTは歴史的にも理論的にも貨幣は最初から信用貨幣であったとみなす。私はマルクスに従い,資本主義社会における貨幣を理論的に理解するにあたっては,まず本源的に金を典型とする商品貨幣のモデルで理解した上で,その発展形として銀行券や預金通貨の存在するモデルで理解し,さらに管理通貨制という条件下のモデルで理解すればよいと考える。

ジェラルド・A・エプシュタイン(徳永潤二ほか訳)『MMTは何が間違いなのか?』東洋経済新報社,2020年。



2020年12月22日火曜日

ベトナム鉄鋼業論が英語の論集に収録されました:Hiromi Shioji, Dev Raj Adhikari, Fumio Yoshino & Takabumi Hayashi eds., Management for Sustainable and Inclusive Development in a Transforming Asia, Springer, 2020

  分担執筆した英語の本が出版されました。Google Scholarからのプロフィール自動更新情報で気づいたのですが,どうやら12/5にアップされたようです。紙版1冊をもらえるかどうかわからないので,とりあえず図書館所蔵用を注文します。


Kawabata, N. (2020). Development of the Vietnamese Iron and Steel Industry Under International Economic Integration, in Hiromi Shioji, Dev Raj Adhikari, Fumio  Yoshino & Takabumi Hayashi eds., Management for Sustainable and Inclusive Development in a Transforming Asia, Springer, 255-271.(国際経済統合下におけるベトナム鉄鋼業の発展)

https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-981-15-8195-3_15

 この論文の最初のバージョンは,2018年にベトナム鉄鋼業に関する評価の輪郭を思いついた時に,とにかく実務者,政策担当者,研究者に速報しようと日本語,英語両方でDPにして配信したものでした。その後,IFEAMA(東アジア経営学会国際連合)の大会で報告し,報告論文からピックアップしての出版にエントリーして採択されました。

 執筆を決めた時に念頭に置いたのは,実務家や政策担当者の状況でした。つまり,ベトナム鉄鋼業はアジアの産業の中で地位を急速に向上させているのに,この産業の発展史や各セクター(国有,民営,外資)に関する評価が提示されていなかったことです。その原因は簡単で,継続的に調査・研究している人が私以外にほとんどいないからでした。なので,まずはベースとなるものを私が書いて提示するのが社会的責任であろうと思ったわけです。これで,ベトナム鉄鋼業への評価がおかしな方向にすっとんでいく危険は回避できたし,この産業に関する仕事に携わろうとする人に,まず最初に読んでもらいたい論文になったと自負しています。

 しかし,とりあえず関係者に理解してほしい要点だけを詰め込んだものであり,実証分析は十分とは言えません。次の課題は,もっと解像度の高く詳細な研究書を一人で書き上げることです。


2020年12月18日金曜日

DHC吉田会長の「ヤケクソくじについて」に対して

 DHC通販の公式ページに掲げられている吉田会長名の文章。ハフポストがDHCの見解を問いただしても,同社は「回答することは特にない」としている。では,このような文章を公式サイトに掲げて問題ないというのか。私も問いたい。

・吉田会長は「サントリーのCMに起用されているタレントはどういうわけかほぼ全員がコリアン系の日本人です」と述べているが,これは何を根拠にしているのか。何の根拠もなく,また必然性もなくして,他人の民族的系譜を大企業の会長がウェブ上で公然と決めつけるのは不適切だ。

・上記の言明の直後に「そのためネットではチョントリーと椰楡されているようです」というが,そのように呼ばれているという事実認識の根拠は何か。どこで,どの程度普及している呼び方なのか。

・「チョン」を,日本においてコリアンに対して使うことは蔑称だ。フェアな呼び方ではなく差別的な呼び方だ。なぜ,このような呼び方をするのか。伝聞を紹介しただけだなどと言ってすむことではない。

・上記の言明に続いて「DHCは起用タレントをはじめ、すべてが純粋な日本企業です。まもなく創業50年を迎えようとしている老舗の会社です。今、雨後の筍のように出てきた幾多数多の同業者とも一線を画しています。まだまだ残っているはずの賢明な消費者に私たちは一線の望みを託しているのです。」と述べていることについて。この文章は,「コリアン系日本人」を宣伝に起用する企業は劣っており,「純粋な日本企業」であるから優れているのだという価値判断を示している。コリアン系日本人を宣伝に起用することについて,企業として何がどう問題だと考えているのか。どのような日本人を起用するのが「純粋な日本企業」と考えているのか。「コリアン系日本人」とそうでない日本人に企業の優劣につながる差があると考えているのか。どのような根拠を持ってそういえるのか。これは民族的系譜のみによって人の優劣を判断する差別ではないのか。

 今後,DHC吉田会長が上記言明の不適切さを認めるか,さもなくば納得できる説明を行うかのいずれかでない限り,私はDHCのサプリメント購入を中止する。

吉田嘉明「ヤケクソくじについて」DHC公式オンラインショップ,2020年11月30日。

2020年12月12日土曜日

2050年に鉄鋼生産工程でのCO2発生ゼロを目指すという日本製鉄の方針について

 『日本経済新聞』2020年12月11日付によれば,日本製鉄橋本英二社長は「政府が掲げる50年のゼロ目標に合わせて,鉄をつくる過程で発生しているCO2ゼロを目指す」と述べたとのこと。

 待たれていた方針だ。日本の鉄鋼業界の温暖化対策は,京都議定書の削減目標を達成したところまでは見事であったが,その後はベースライン比何百万トン削減という形での,国際社会への貢献度があいまいな目標しか立ててこなかった。2018年には日本鉄鋼連盟がゼロカーボンスチールを目指す温暖化対策ビジョンを作成して一歩踏み込んだが,そこでも世界鉄鋼業がゼロカーボンを達成するのは2100年とされていた。この達成時点を2050年に前倒しすることで,「世界的な平均気温上昇を産業革命以前に比べて2℃より十分低く保つとともに,1.5℃に抑える努力を追求する」というパリ協定の目標に見合った削減シナリオとなる。

 また報道が正確だとすれば,今回日鉄は,「電炉活用を進める」と公言したことになる。すでに日鉄は,瀬戸内製鉄所広畑地区への電炉導入を決めて布石を打っていたのだが,(報道が正確であれば)ついに公然と電炉の温暖化対策上の意義を認めた格好になる。これはJFEスチールや神戸製鋼所,また日本鉄鋼連盟にも影響を与えるだろう。これまで日本鉄鋼連盟は,「電炉の方がCO2排出原単位が小さい」という話題が出るたびに徹底して反発してきた。その背後に高炉メーカー会員の意向があったことは容易に推定できる。このかたくなさも変化すると期待できる。

 もっとも,これは必然だったと言える。そうしなければ目標が達成できないからだ。鉄鋼連盟が公表している,2100年ゼロカーボンスチールの方針は,ある程度の電炉法比率拡大を想定していた。もっとも主要な達成手段はそこにはおかず,現在開発中の部分的水素還元製鉄COURSE50を実用化した上に,さらにその先の超革新的製鉄技術,端的には完全な水素製鉄法,加えてCCSまたはCCU(二酸化炭素回収・貯留,再利用),さらに系統電源のゼロエミッション化をすべて達成することで目標を達成するとしていた。しかし,2050年に排出ゼロを実現しようとすれば,これらの次々世代技術開発は必要である一方で,そこにすべてをかけるわけにはいかないだろう。また,次々世代技術がすべて実用化されて2100年に達成では遅すぎる。10月公表の拙稿(※)で指摘したように,まず2050年に向かっては,現存する技術であるスクラップ・電炉法の適用比率をもっと拡大していくことが必要だろう。

 ただし,日鉄の方針にはより詳しく見るべき点もある。排出ゼロとするのはどの範囲なのかということだ。世界全体としての日鉄の連結あるいは持ち分法対象企業すべてなのか,それとも日本国の排出に計上される分,つまり日本国内の生産拠点についてなのか。前者であることを期待するが,後者だとすると,960万トンの還元鉄一貫システムを持つインドでの合弁事業AM/NSインディアなどは対象外ということになる。

 この点は注意が必要だ。現在,日本製鉄は粗鋼生産の量的拡張は国際M&Aで進める方針を取っている。旧エッサール・スチールをアルセロール・ミタルと共同で買収して再編したAM/NSインディアはその主力であるが,今後も同様の買収があるかもしれない。裏返すと,国内では粗鋼生産能力を拡張することはもはやなく,すでにコロナ禍以前から呉製鉄所閉鎖などの大規模な設備調整に入っている。生産設備が縮小すればCO2排出も縮小する。もしゼロカーボンの方針を国内拠点だけに適用すると,生産拠点の国内から新興国へのシフトを加速させる要因になるし,地球全体としてのCO2排出削減効果をそぐ作用も持つ。ゼロカーボンの方針を全世界の拠点に適用するか,あるいは国内でのスクラップ・電炉法へのシフトを円滑に進めれば,こうした副作用は起こらない。

 日本製鉄の立地戦略と環境戦略を総合して,今後も注視していく必要がある。

「日鉄、50年に排出ゼロ 水素利用や電炉導入」『日本経済新聞』2020年12月11日。

※川端望「日本鉄鋼業の現状と課題~高炉メーカー・電炉メーカーの競争戦略と産業のサステナビリティ~」『粉体技術』第12巻第10号,日本粉体技術工業協会,2020年10月,15-19頁。


2020年12月5日土曜日

民間銀行が国債を引き受けても,通貨供給量は外生的に増加する

  貨幣論の講義を終えての理論的反省。昔からある話だが,マルクスの貨幣理論を古典的理解のままさほど改変せずに入門講義をしようとすると,管理通貨制を説明できるかという問題に突き当たる。私見では,これは大きく二つの領域に分かれる。

1)「流通必要金量」概念とそれによる論理構成は維持できるか。管理通貨制の下で,何らかの商品貨幣の物量によって貨幣の流通必要量を定め,それに対する紙幣や銀行券の代表量を論じる構成は維持できるか。

2)貨幣流通法則と紙幣流通法則の区別は現実性を持つか。不換銀行券や補助硬貨がすべて紙幣流通法則にしたがうのであれば,貨幣数量説とマルクス理論は区別されるのか。

 1)の方が難問である。あっさり否定するのは簡単であるが,そうすると色々な論理構造を連動して変えねばならず,非常に複雑な作業となる。かつて私が院生の頃,研究科内で田中素香教授と村岡俊三教授の見解が真っ二つに割れたことを覚えている。両方のゼミに出ていた院生はたいへん張り詰めた空気を感じざるを得なかったという(私は村岡ゼミにしか出ていなかったので,緊張は半分で済んだ)。いわゆる価値尺度商品の想定の問題であり,正直,私にもこちらはまだ整理がまだつかない。正直に言うが,スラッファ理論の訓練を受けなかったのがたたっており,現代的な議論についていけそうにない。

 私にとっては,2)は1)に比べれば何とかなりそうだと思っている。マルクスの言葉で貨幣流通法則にしたがうとは,現代の言葉では,内生的貨幣供給とほぼ等しい。紙幣流通法則はその逆で,貨幣の外生的供給の論理である。どのような通貨のどのような供給が貨幣流通法則にしたがい,したがって貨幣的インフレーションを起こさないのか,何が紙幣流通法則にしたがい,貨幣的インフレーションを起こすのかは,何とか論じられると思う。それが先日の投稿「管理通貨制下の中央銀行券はどのような場合に貨幣流通法則にしたがい,どのような場合に紙幣流通法則にしたがうか」である。これでもまだ不十分な点はあるが(国債発行の際の通貨供給増を中央銀行券の増発と単純化しているが,これでは預金通貨の動きをカバーしない),説明不可能に陥る危険は今のところ感じない。

 しかし,この整理によって,私はマルクス経済学の多数の解釈とも,また今まで基本的に従って来た不換銀行券=信用貨幣説の先達,すなわち岡橋保教授と村岡俊三教授ともある点で異なる見地に立つことになった。それは,国債を民間銀行が引き受けた場合にも,通貨供給量は一方的に増大するとみる点である。

 マルクス経済学者は,不換銀行券=国家紙幣説であれ不換銀行券=信用貨幣説であれ,国債を中央銀行が引き受けた場合には紙幣流通法則が作用し(=紙幣が外生的に供給され),通貨供給量が一方的に増加して,貨幣的インフレ作用が生じると考える。私の知る限り,ほぼ例外はない。しかし,逆に国家紙幣説であれ信用貨幣説であれ,国債を民間銀行が引き受けた場合には,流通界から政府が紙幣を引き上げ,再び投入すると考える。この場合,流通法則をどちらで考えるかは別として,通貨供給量は変化しないと考えるのが通説である。岡橋教授は明らかにそうであるし,村岡教授は書き記してはいないかもしれないが,口頭の議論からは同様であったと私は理解している。

 しかし,そうではないと私は考えるに至った。中央銀行が引き受けようが民間銀行が引き受けようが,通貨供給量は増えるのである。以下,中央銀行券と預金の動きを説明する。

・中央銀行引き受けの場合

1a)政府が中央銀行券で支出すれば,「政府預金増→政府が中銀券で預金を降ろして支払→支出先企業の中銀券増」

1b)政府が銀行振り込み支出すれば,「政府預金増→政府支出・政府預金減→支出先企業の銀行預金残高増→預金された銀行の中央銀行当座預金増・政府預金減」

となる。明らかに通貨供給量が増えている。

・民間銀行引き受けの場合

2a)政府が中央銀行券で支出すれば,「銀行の中央銀行当座預金減・政府預金増→政府が中銀券で預金を降ろして支出→支出先企業の中銀券増」

2b)政府が銀行振り込み支出すれば,「銀行の中央銀行当座預金減・政府預金増→政府支出・政府預金減→支出先企業の銀行預金残高増→預金された銀行の中央銀行当座預金増・政府預金減」

となる。これも通貨供給量は増えている。2a)ではかわりに中央銀行当座預金が減っているが,企業が中央銀行券を預金すれば準備も回復し,その圧力はなくなる。2b)では中央銀行当座預金が減りもしない。

 通説が誤っているのは,国債を民間銀行が引き受けると,通貨が民間から引き上げられる(よく使われる表現では民間貯蓄が吸収される)とみなしているところである。そうではない。国債の代金は流通の外にある(マネタリーベースに含まれるがマネーストックに含まれない)中央銀行当座預金から政府預金に振り込まれるのである。なので銀行が国債を引き受けても通貨は民間から引き上げられず,民間貯蓄は吸い上げられないのである。もちろん,民間銀行からさらに民間投資家に売却されれば別である。この場合,投資家の持つ中央銀行券や預金が減少するために通貨は引き上げられる。

 この見解の帰結は,重大な問題を派生させる。この見解に従えば。国債が中央銀行によって引き受けられようが民間銀行によって引き受けられようが,紙幣流通法則が作用し(通貨が外生的に供給され),貨幣的インフレ圧力が生じるはずだからである。現実にはどうか。日本をはじめとする先進諸国が財政赤字を出し続けているにもかかわらず,1980年代以降,物価上昇率は下落の一途をたどり,ついには物価上昇率を引き上げよという政策的主張が交わされるに至ったのである。一体,このことをどう理解すればよいのか。これが次の問題となる。

 なお,貨幣の種別と流通法則をまとめた表を,政府の財政赤字で預金が増加した場合を含めて書くと以下のようになる。

2021年2月19日。加筆。




論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...