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2020年5月7日木曜日

「裏切り」の物語としての『ウルトラマンA』最終回「明日のエースは君だ!」

 2020年5月3日から公式無料配信配信されている『ウルトラマンA』最終回「明日のエースは君だ!」。脚本は市川森一,監督は筧正典,特殊技術は高野宏一。1973年3月30日放映。

 これは「裏切り」の物語である。

 冒頭,林の中でウルトラ兄弟のお面をかぶった子どもたちが無抵抗のサイモン星人をいじめている。かけつけて保護する超獣攻撃隊TAC。
子ども「ねえ,そいつ死刑にするの?」
北斗星司(=ウルトラマンA)「どうして」
子ども「だって,宇宙人だろ?」

 切通理作『怪獣使いと少年』(宝島社,1993年)が述べるように,これは当時小学生だった私たちの日常である。ウルトラマンになって,怪獣や宇宙人を殺すことを何もためらわない。北斗=ウルトラマンAの思いにかかわりなく,ウルトラ兄弟に守られた地球人の現実はこうであった。北斗=Aは子どもたちに裏切られる。北斗は「ウルトラ兄弟は弱い者いじめはしない。何もしない宇宙人の子どもを,わけもなくいじめたりはしない」と言い聞かせる。

 TACの前に,滅びたはずの異次元人ヤプールが,超獣ジャンボキングを送り込んでくる。ヤプールはサイモンの引き渡しを要求する。「もし地球人がサイモンをかばうなら,地球人も私の敵だ」。TACはジャンボキングに歯が立たない。ヤプールは,明日の朝までにサイモンを渡せと言い残して,ジャンボキングを引き上げる。

 一方,子どもたちは考えを改めてサイモンを隠す。街が破壊されても,「地球にはAがいる。Aが来てくれるまで,俺たちがサイモンを守るんだ」と決意する。

 TAC基地では,副隊長格の山中隊員は「ここは一応,奴の要求通りサイモンを渡して様子を見たらどうです」と提案する。罪のない宇宙人を,地球の安全のために侵略者に引き渡す。それは子どもたちへの裏切りだ。北斗は「家や町はまた立て直すこともできます。しかし,あの少年たちの気持ちは,一度踏みにじったら,簡単には元には戻りません」と説得する。竜隊長は試作段階の細胞分解ミサイルでジャンボキングを攻撃すると決める。

 その夜,明日はAになって戦おうと決める北斗。そこに,かつての合体変身のパートナー,南夕子の姿が現れる。「星司さん,もしあなたがウルトラマンAだということを誰かに知られたら,あなたは二度と人間の姿に戻れないのよ」。

 翌朝,ジャンボキングにTACの細胞分解ミサイルはまったく歯が立たない。TACの最後の望みは裏切られる。窮地に陥るサイモンと北斗,子どもたち。そこにサイモンがテレパシーで北斗に語り掛ける。

サイモン「北斗星司よ。私の声に聞き覚えがあるか」
北斗「ヤプール!」

 サイモンこそがヤプールであった。銃を向ける北斗。驚愕する子どもたち。しかし,サイモンのテレパシーは北斗にしか聞こえない。

サイモン「誰も私をヤプールだとは信じていないぞ。私を撃てば,おまえは子どもたちの信頼を裏切ることになるぞ」
北斗「……くそお」
サイモン「人間の子どもからやさしさを奪い,ウルトラマンAを地上から抹殺することが,私の目的だったのだ!」

 サイモンを射殺する北斗。北斗を責める子どもたち。「こいつは超獣が恐くてサイモンを殺したんだ!」。子どもたちは北斗に裏切られ,北斗は再び子どもたちに裏切られる。

北斗「僕がやつのテレパシーをわかったのは……それは僕が……ウルトラマンAだからだ」
子ども「嘘だ」
北斗「嘘じゃない。見ていてくれ。これがウルトラマンA最後の戦いだ」

 Aに変身する北斗。

「彼らに真実を伝えるには,こうするしか仕方がなかった。さようなら地球よ。さようならTACの仲間たち。さようなら……北斗星司」

 激闘の末にジャンボキングを倒したAは子どもたちに語り掛けて,飛び去る。その声は北斗星司のものではない。北斗はもういないのだ(※1)。

「やさしさを失わないでくれ。弱いものをいたわり,互いに助け合い,どこの国の人とも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。たとえ,その気持ちが何百回裏切られようと。それが私の最後の願いだ。」

 M78星雲から遣わされたウルトラマンAは,そのまま地上で暮らしているわけではない。地上で暮らすのは人間としての北斗星司であり,Aと北斗ははっきりと別の人格なのだ。そして北斗は,子どもたちを救うことはできなかった。むしろ裏切り者として責められねばならなかった。地上の人間では,この裏切りを解決できないのだ。唯一の方法は,人間たちの罪を負って,自らの存在を消し去ることだ(※2)。その時,Aもまた地球を去らねばならない。

 北斗は消え去る。星に帰らねばならないAには,もう地上の出来事に働きかけることはできない。できるのは,ただ語りかけることだけだ。やさしさを失わないでくれ。たとえ何百回裏切られようと。あとは,Aの姿と言葉を覚えている人間の問題だ。「明日のエースは君だ!」(※3)。それは北斗を襲った過酷な試練が,明日は私たちに課せられるという意味なのだ。

※1 後年,北斗役の高峰圭二氏は,このセリフを自分が言いたかったが監督に認められなかったと述べている(『スポーツ報知』「ウルトラセブン放送開始50年特別号」2017年7月1日)。それは,ここではすでに北斗は消滅していなければならないからであり,市川氏や筧氏がその設定を崩さなかったからだ。
※2 市川森一氏の信仰を考えれば,これが何の比喩であるかは言うまでもない。
※3 「明日のエースは君だ!」というサブタイトルが,子どもたちを鼓舞するものではないことについて指摘した最初の文献は,私の知る限りでは切通理作『怪獣使いと少年』宝島社,1993年である。また多義的にとれる脚注で暗示しているためにはっきりしないが,山田歩「復讐と裏切りの十字架」『僕らのウルトラマンA』辰巳出版,2000年はこの解釈を取っていた可能性がある。本稿は先行するこの2文献に学びながら記したものである。

2020年12月8日。Aと北斗が別人格であることを踏まえて修正。注3を追加。




2020年5月2日土曜日

清晌一郎教授の「曖昧,無限」論文と「価格設定方式」論文がセットであることの意義:日本資本主義論としての下請け・系列・サプライヤーシステム研究

 オンラインリアルタイム大学院ゼミと資料持ち帰りのため出勤。院生が博士論文に使う文献が紙しかないという場合が困る。図書館が閉まっているので,買ってもらうか,私の研究室にあるものをコピーorスキャンして送るしかない(教育目的としてご勘弁いただきたい)。
 今回必要なのは写真の2点。私はもう10年以上にわたり,この清晌一郎論文2点は浅沼萬里『日本の企業組織』よりはるかに正しい,サプライヤー研究をやるならこれを読むべきだと言い続けているが,なかなかわかってもらえない。また,「曖昧・無限」論文はそれでも多くの研究者が引用するが,「価格設定方式」論文はほとんど引用されない(『関東学院大学経済研究所報』がCiNiiにインデックスされていないというのもまずい)。よく見れば,副題に「自動車産業における日本的取引関係の構造原理分析序論」とその(2)とあり,一対であることが明示されているのだが,(2)を知らない人が多い。この5年くらいは,「曖昧,無限」だけを使うのは偏ったつまみ食い的利用だと言い続けているが,だいたい「価格設定方式」の方は「そんな論文もあったのか」という顔をされて終わる。頭にくるので講義でもゼミでも事細かに紹介し,浅沼説と対比している。学生はサプライヤ管理とはそんなにも厳しいものかとうんざりした顔をし,何でも暗く考えすぎる私の偏向ではないかと疑うが,某ガラス,じゃない素材のメーカーに入った卒業生は「完全に先生の言う通りでした」と報告してきた。
 不正確を承知で大雑把に言うと,「曖昧,無限」論文は日本的取引のモノの管理に関する側面が品質・技術水準を向上させるというものであり,マルクス用語では生産力研究,組織経済学の用語ではコーディネーション研究だ(もちろんそれだけではないが,その側面が強いということだ)。「価格設定方式」論文は日本的取引方式がカネの管理に関する側面がサプライヤーを品質・技術水準の向上に向かって動機づけるというものであり,生産関係研究であり,インセンティブと利害調整の研究だ。前者だけ引用すると「品質管理が厳しいけれど優れているなあ」という話に終わりやすい。本当の厳しさはカネの側面を含めないとわからない。そして,カネの側面とはカネが誰のものかという,所有権に関する一定の制度・慣行と結合している。その厳しさとは,ただ単線的な物差しの上にゆるくなくて厳しいというのではなく,契約の在り方,権利と義務の在り方における日本の独自性を表現している。
 下請・系列研究は,サプライヤーシステム研究と名を変えようとも,日本資本主義研究なのである。私はそう考えている。

清晌一郎(1990)「曖昧な発注,無限の要求による品質・技術水準の向上:自動車産業における日本的取引関係の構造原理分析序論」中央大学経済研究所編『自動車産業の国際化と生産システム』中央大学出版部,193-240。
清晌一郎(1991)「価格設定方式の日本的特質とサプライヤーの成長・発展:自動車産業における日本的取引関係の構造原理分析(2)」『関東学院大学経済研究所報』13,50-62。

私が唯一,両論文の意義をまとまった文章で述べたものは以下。
川端望(2017)「中国経済の『曖昧な制度』と日本経済の『曖昧な制度』 ―日本産業論・企業論からの一視点―」『中国経済経営研究』1(1),中国経済経営学会,26-32。


2020年4月27日Facebook投稿の再録。


2020年4月29日水曜日

人間は弱いから何を思ってもいいと思う。けれど垂れ流さないようにしないと:岡村隆史風俗発言に心が痛い

私は心の弱い弱虫に過ぎないので,<ああ,自分だけに都合の良い世界になったらいいなあ>と心に思うこと自体は止められないし,責められないと思います。<あんなことやこんなことが起こったらいいなあ>とは私も思います。けれど,それは正しいことではないので,公然とメディアに乗っけて発言しないのが大人だと思うのです。とくに,自分がやられて嫌なことを人に強要する発言はしないとか,自分だけ助かって他人はひどい目に遭えばいいと発言しないとか。どんなに黒い気持ちがあっても,そこだけは守らないと。岡村隆史さんの発言は,そう言うことだと思います。

 もし,ある種の性的指向を持つ人が,「コロナ明けたら、なかなかの<没落した芸人さんが>短期間ですけれども、<男性芸人がM風俗>やります。これ、何故かと言うと、短時間でお金をやっぱり稼がないと苦しいですから、そうなった時に今までのお仕事よりかは」と公言したら,岡村さんは嬉しいでしょうか。<仕事なくなって食い詰めた岡村が風俗に出てきて,あんなことやこんなこともやり放題になる。岡村を鞭で打ったり,ろうそく垂らしたり,踏みつけたりもし放題になる>,だから「いろいろ仕事ない人もアレですけども、切り詰めて切り詰めて、その時の3カ月のために頑張って、今、歯食いしばって踏ん張りましょう。そうしたら、コロナ明けた時に、その3カ月、見てみ?行ってみ?」「僕は、僕はそれを信じて今、頑張っています」とメディアで垂れ流されたら,岡村さんは嬉しいかと。辛い気持ちにならないかと。もし,自分に置換えたらちょっとでも辛いと思うのなら,言わずにおこうとするのが,大人だと思うのです。繰り返しますが,黒い気持ちがあってもしかたがないと思います。それは否定しません。でも,それを心の中だけに封印して,決して垂れ流さないことが大切じゃないかと。


2020年4月19日日曜日

「PCR検査を拡大すると医療を危うくする」から「PCR検査を拡大しないと医療を危うくする」に局面が変わっているのではないか

 前の投稿では感染不安を抱える市民の視点を重視したが,今度は素人考えを承知で,医療関係者・医療体制の側を想定して考えたい。そうすると,PCR検査の拡大が必要になっているように思える。その基本的な理由は以前からずっと続いているもので,医師が要請しても検査してもらえない状況にぶつかるからであるが,このところもっと切実な状況に医療体制が直面しているように見える。そして,従来は,「PCR検査に労力を注ぎすぎると医療体制を圧迫する,検査で来院すると院内感染を起こす」ことが問題であったが,ここに来て逆の,「検査が足りないと医療が困難に陥る,検査しないと院内感染を起こす」というベクトルが強まっているように見える。

 それは,医療関係者が,病院にやってくる患者や,病院の同僚,さらに自分が感染するかもしれない,既にしているかもしれないというリスクにとりまかれているからだ。

 クラスター対策が機能している間は,感染者全体の約2割を占める,他人に感染させるような感染者の多くを,追跡の網にとらえることができた。それで感染拡大を効率よく防止できた。ところが東京や大阪などの大都市圏を筆頭に,感染リンクの追えない感染者が次々と現れ,その割合が高くなっている。これはクラスターの連鎖が客観的には存在していても発見できないということだ。専門家会議の押谷教授や西浦教授も,クラスター対策ではまにあわず,社会的距離戦略を徹底するを主張されている。政府の緊急事態宣言はその戦略上の変化に立脚している。それはわかる。
 しかし,こうなると,従来のPCR検査戦略(クラスター追跡と重症者同定)も機能しなくなると思う。積極的疫学調査で濃厚接触者を追い切れなくなる一方,重症者同定に絞る検査基準から外れる人の中に,かなり症状が重く救急車で運ばれるような人も増えてくる。そうなると,約2割の,人に感染させる感染者が,検査の網に引っかからないことが多くなり,感染が広がる。
 医療関係者から見ると,病院にやってくる,あるいは搬送されてくる患者がコロナウイルスに感染しているかもしれないという確率が上昇する。また医師や看護師が感染していて,かつ検査されていない確率が上昇する。そのような危険を背負って医療を遂行しなければならない。院内感染が発生する危険が高まる。他方,病院がどうしてもこれ以上リスクを負えないと考えた場合は患者を受け入れられない。例えば,最近報道されているように,緊急搬送の患者がコロナウイルス感染者かもしれないと疑った場合に断ることになる。患者は,検査もしてもらえず病院に受け入れてももらえないという,袋小路に追い込まれる。
 この状態では,医療体制は困難に陥る。病院にやってくる未検査の患者がコロナに感染しているリスク,自分や同僚がすでに感染しているリスクをコントロールしないと,院内感染が広がる。さりとて治療を制限すれば患者が袋小路に追い込まれるのだ。
 この新しい事態に直面している地域では,たいへんであってもPCR検査を拡大する以外にないのではないか。それは,一方では医療関係者内の感染をコントロールして院内感染を防止するためだ。他方では,感染者を感染者と同定し,重傷者は入院,軽症者は専用施設や自宅療養ときちんと振り分けたうえで漏らさずにケアするためだ。東京医師会がPCR検査センターを設置するというのは,もっともな対応であると思う。

「「PCRセンター」都内に10か所程度設置か 東京都医師会、偽陰性「3割」に課題も」Yahoo!JAPANニュース(THE PAGE提供),2020年4月17日。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200417-00010004-wordleaf-soci

2020年4月17日金曜日

重症者の治療が優先だとしても,感染不安にさいなまれるおおぜいの人も支援して欲しい:日本感染症学会と日本環境感染学会の声明について

日本感染症学会と日本環境感染学会の声明。4月2日付の声明を前者は4月16日付,後者は15日付の広報で公開している。そしてヤフーニュースで本日17日に流れている。

 しかし,ほんとうにこれが16日現在の両学会の方針なのだろうか。非常な不安を持つのでコメントする。

1.現状とずれていること3点
 まず,現時点で起こっていることとずれていることが2点ある。

(1)PCR検査については,そもそも不用意な文言がある。「PCR 検査の原則適応は、「入院治療の必要な肺炎患者で、ウイルス性肺炎を強く疑う症例」とするというのは,不正確ではないか。正確には1)重症者を同定する場合の他に,2)クラスター対策の場合も行っており,柱は一つでなく二つである。後者の場合,クラスターを早期発見し,感染者を早期隔離するために,無症状の濃厚接触者も検査する。現に,仙台市では現在,保育園や英会話教室でのクラスターを追跡するために無症状者も多数検査して,実際に昨日(4/16)も感染者を発見している。両学会は専門家集団なのに,なぜこんな誤解を招く,実際と異なることを書くのか。

(2)最近生じている問題は,医師がPCR検査を求めても十分に話されないという問題であり,PCR検査をしてもらっていない肺炎症状の患者が,病院で救急搬送を拒否されるという問題である。これらの問題は,医師が,患者が新型コロナウイルス感染者かどうかわからないままに,診察・治療をしなければならない状況を意味している。医師・病院は院内感染のリスクにおびえながら患者を診なければならないし,院内感染を避けようとして,コロナかと疑った患者の搬送を拒むという選択肢をとることがある。
 医師の立場から見ればそれは合理的だが,この場合の患者の置かれた立場は極度に理不尽である。PCR検査をしてもらえないというのは,保健所という公的機関から「コロナではないでしょう」と言われるに等しいことである。なのに,病院は「コロナかもしれない」というので救急搬送を拒否される。このようなあからさまな矛盾した扱いを,たとえコロナでないかもしれなくても現に肺炎で苦しんでいる患者が突き付けられているのだ。こうしたことが報道されて,肺炎や風邪症状のある人,いつ自分もそうならないかとおびえる人々の間に不安が広がっている。入院が必要なほどの肺炎になっても拒否されるという不安だ。これは,理屈上,説明が立たないことなので改善しなければ不満は爆発する。両学会の声明には,PCR検査をめぐるこうした矛盾への考慮がない。

 (1)は不可解として,両学会は,この間次々と明らかになっている(2)の事態をどう考えているのだろうか。4月2日の声明では明らかに対応できていないことと私は思う。なのに,いまになってこの声明を周知しようとするのはどういうことだろうか。無神経に過ぎるのではないか。

2.社会的問題の忘却
 さらに大事なことは,医学的にのみ社会全体のことを考えれば,重症者に医療資源を集中するのは正しいかもしれないけれど,社会の側から民主主義社会であることを考えれば,風邪症状がある人を含む,感染不安におびえる人が大多数であることを忘れてはならないということだ。
 重症者に医療資源を集中するという両学会の声明は,医学的には正しいかもしれない。しかし,社会的には,軽症者と感染不安におびえる多数の人にとっては,この声明を読んだら「なにもしてもらえない」という社会不安が募るばかりである。以前から書いているが,感染不安におびえる人の不安,不満の対象は「なにもしてもらえない」ことに対してなのである。そのはけ口として「PCR検査をしてくれ」と要求しているのだ。検査で陽性となれば,少なくとも患者としてケアしてもらえると思うからだ。これは,医学的に不正確であっても社会的にありうる心理状態なのであって,頭から拒否しては解決しないものだ。

 この両学会のような観点を,そのままむき出しで社会へのメッセージとすればいかに医学的に正しくても多数の怒りを買うだけだ。いま必要なのは,医学的に正しい見地を守ることとともに,社会的観点から,感染不安におびえる人に政府や医療・保健機関が「大丈夫です。助けますよ」というメッセージと具体的措置を提示することでなければならない。両方が必要だ。後者とは,つまりPCR検査を拒否されて病院でも搬送拒否にあうという矛盾をなくすることであり,専用施設での隔離生活や自宅療養が不安なくできるように支援することだ。

※当初コメントにあった1の(3)を削除しました。声明内では,医療機関という範囲にも読めるものの,「軽症例を受け入れる施設の認定」にも触れてはいるからです。

「PCR検査、軽症者に推奨せず―新型コロナ  感染2学会「考え方」まとめる」Yahoo!JAPANニュース,元記事はJIJI.COM,2020年4月17日。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200417-00010000-jij-sctch&p=1
日本感染症学会。16日のお知らせに2日の声明を掲載している。
http://www.kansensho.or.jp/
日本感染環境学会。15日のお知らせに2日の声明を掲載している。
http://www.kankyokansen.org/

大恐慌(Great Depressoin)ならぬ大封鎖=グレート・ロックダウン(Great Lockdown):IMF世界経済見通し

IMF, World Economic Outlook, April 2020(世界経済見通し 2020年4月)。全文は英語だが,要約は日本語でも読める。2020年の日本のGDPが-5.2%,世界の経済成長がマイナス3.0%,世界貿易は-11.0%になるとの予測。大恐慌以来の経済後退であり,Great Depressionに対しGreat Lockdown(大封鎖)というべき事態だとしている。英語全文をいま読み切ることはできないが,要約と図表を見ていくつか気づいたことがある。
 IMFは,世界金融危機以後,構造調整を振り回さなくなったが,今回も,産業や労働者への財政的支援,苦境に陥った世帯や企業への融資条件の(緩和する方向での)見直しと,まともなことを言っている。
 2021年には経済がV字回復するというのがメインのシナリオなのだが,フルバージョンのレポートの末尾には代替シナリオも添えられている。2020年のアウトブレイクが長引いた場合,2021年に第2波のアウトブレイクが来た場合,その両方の場合だ。
 また先進国の方が感染対策のための資源動員能力を持っているとする一方,メインのシナリオでは,新興国・途上国の方が先進国よりも高い経済成長率によって回復することにも注意が必要だ。2021年第4四半期のGDPが2019年度第1四半期に対してどれほどになるかを見ると,新興国・途上国は1割増しと予想されるのに対し,先進国はプラマイゼロまでしか回復しないというのだ。

2020年4月16日木曜日

日銀がETFで損失を出すとはどういうことか:日銀のETF購入(3)

(「日銀のETF購入」。承前)これまで,日銀が自ら作り出す預金と日銀券でETF(指数連動型上場投資信託)を購入していることを確認し,このオペレーションは実質的には特定企業の利害に日銀がコミットする財政政策であることを述べてきた。次の問題は,日銀がこのETFで損失を出した場合の負担をどう評価すればよいのかだ。

1. まず,直接の損失が政府・国民にどう及ぶかだ。ETFに含み損が出れば,日銀はバランスシートの負債・純資産側に引当金を積む。損失を確定する場合には,資産側からETFを,負債・自己資本側から引当金を同額だけ消去しなければならない。つまり,日銀のバランスシートが毀損され,自己資本比率は下がる。また,日銀の毎年度の利益(剰余金)が減少したり,マイナスになったりする。日銀は剰余金を政府に納付することになっているので,剰余金が減る。直接に起こるのはこういうことである。
 したがって,政府の側から見ると,ETFの損失を税金で穴埋めする必要はない(繰り返すがETFは税金で買っているのではない)が,日銀からの納付金が減って,国庫収入の減少につながる。日銀の国庫納付金は世界金融危機後の2010年度に落ち込み443億円,それ以後は5000億円台から7000億円台で推移している。2017年度は7265億円,2018年度は5576億円だ。まずこの国庫納付金の減少が,中央政府に与える直接の損害であり,その意味で国民負担となる。

2. 次の問題は,失われた機会についてだ。「その2」で述べたように,そもそも財政政策を日銀が行うのはおかしなことであり,ETFを購入するのに日銀が発行したお金(日銀当座預金と日銀券)は,もっと別のことのために発行すべきだったのかもしれないし,発行すべきでなかったのかもしれない。例えば,国債を買い支えて政府の支出拡大に貢献し,政府が国会の議決に基づいて財政拡張を行った方が,より優れた方法でデフレ脱却に寄与したかもしれない。そこまでいかなくとも,ETF購入などしなかった方が日本の産業構造転換を促せたかもしれない。最大の問題はこの,失われた機会である。ETFなど買わない方が,財政民主主義上も市場経済の運営上も望ましかった。日銀と中央政府を合わせた統合政府として見た場合,「お金の使い道を誤った」のである。
 コロナ危機に際してもそうである。コロナ危機に際して,ようやく金融政策の限度が認識され,債務が増大しても財政を拡張しなければならないことが諸国政府の共通認識になっている。政府と中央銀行が協調しており,インフレと為替暴落を起こさない限り,政府債務は持続的拡張できるのであって,財政支出の程度と中身は国会で与野党が争い,決めるべきだ。それが財政民主主義だ。失業者の救済,個人の生活と自営業者の営業の維持,企業の運転資金の確保,感染症対策にこそ,国債を発行してでもお金を使うべきだろう。日銀は,国債引き受けをせずとも,買いオペで政府を支えるだろう。
 これまでは,中央政府と国会が,財政赤字を拡大してはならないという呪文にとらわれているうちに,その背後で,日銀はETF購入のために通貨という政府債務を発行していた。そして今も,株式市場で抜き差しならなくなり,相場の下落の下で通貨を発行して買い向かっている。これは明らかにお金の使い方を誤っている。
 もちろん,財政民主主義も万能ではない。財政がお金の使い方を誤れば人々の不安は収まらず,感染症の流行は収束しない。また,各社会階層の代表が集合する議会においては経費膨張法則が働き,経済危機と感染症流行の後にも必要以上に財政を拡張してインフレを招くかもしれない。しかし,だからと言って国会とは別に,日銀が勝手に財政政策を行い,上場企業と株式投資家を優先的に救済するために通貨発行を行うことは,これまでもまちがっていたし,これからもまちがいだろう。この「お金の使い方の誤り」によって失われた機会,これから失われる機会こそが最大の損失である。

 なお,残された問題として,損失額が大きくなって日銀のバランスシートが毀損された場合に資本増強が必要になるか,なるとすればどのような手段によるのかということがある。これはかなりテクニカルな問題を含むので,続稿ないし別の機会としたい。

その1
https://riversidehope.blogspot.com/2020/04/etfetf1.html
その2
https://riversidehope.blogspot.com/2020/04/etfetf2.html



論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...