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2019年10月30日水曜日

<財政赤字はアンモラルだ>という考えが,井手英策教授の理想の実現を妨げている

私は,井手英策教授の「生きるためのニーズが満たされるべきだ」という考え,「雑に扱われていい人なんて一人もいない」という考えを支持する。そのために社会の成員が助け合うべきだという考え方にも共感する。しかし,井手教授は社会の成員が助け合うべきだということを,<税の納入で負担を分かち合うべきであり,財政赤字を出すべきでない>という考えに直結させているように見える。また,さらにすすんで,<増税に反対するのは助け合いの思想がないということだ>と,租税抵抗が財政赤字を拡大することをアンモラルだと主張しているように読める(※)。私は,この後の二つの考えには反対する。
 むしろ私は,極端に言えば<誰をも雑に扱わないためには,財政赤字くらい出していいじゃないか>という風に考えている。一応,その経済学的根拠もある。通貨発行権を持つ国家は,債務が自国通貨建てである限りはデフォルトを起こさない。もちろん,悪性インフレを起こすべきでないし,為替レートを暴落させるべきではないし,バブルとその崩壊を引き起こすべきではない。しかし,それらのことに気をつければ,常時財政赤字があっても問題ないはずである。また,常時財政赤字を出すことなく,失業者をすべて雇い,ミニマムの社会保障が実現できるかどうかも疑問である。
 私は,強引に要約するなら<租税抵抗による財政赤字はアンモラルだ>という考えが,井手教授の理想の実現を妨げているように思う。

※<>は引用でなく,井手教授の言っていることはこういうことになる,という解釈である。もちろん,井手教授は「アンモラル」という言葉を使っているわけではない。しかし,教授は租税抵抗を,助け合いの思想の欠如と結び付けてとらえており,その帰結としての財政赤字に倫理的な否定的意味を込めていると読めるのだ。これを「アンモラルと主張している」と解釈した。なお,教授は同時に,租税抵抗はお金を貯蓄として眠らせ,有効活用を妨げる効果を持つとも述べており,これには私は賛成する。

「賢人論第103回 井手英策氏 前編・中編・後編」みんなの介護,2019年10月21日,24日,28日。

井手英策『幸福の増税論』岩波書店,2018年。

2019年10月27日日曜日

地図は鬼門中の鬼門:米中合作アニメ映画『アボミナブル』がベトナムで上映中止になった件

 米中合作アニメ映画『アボミナブル』がベトナムで上映中止になった件。原因は,映画内に登場する南シナ海の地図に,中国が主張する国境線である九段線が書かれていたから。

 地図は鬼門中の鬼門,地雷中の地雷である。地図を,とくに境界線を描くというのは,高度に政治的な行為になりやすい。黙って「普通に」してれば政治的にならないというものではない。必要がないなら描かない,必要がない部分を描かない,国境を書かない,色を塗り分けないなどの目的意識的な工夫をして,なんとか非政治性や中立性を確保できるくらいに思った方がいい。さもないと,意識していようといまいと,客観的には特定の政治的立場の宣伝を行うことになってしまう。その政治宣伝を思わぬところで押し付けられた場合の反応は激しくなる。

 私にも覚えがないわけではない。以前に「東アジアプロジェクト」と言う共同研究をやっていたが,あるチラシに東アジアの地図を載せようとしたところ,以下のような問題に突き当たった。

*国別の色の塗分けはトラブルの元。係争地域について特定の判断をすることになるから。
*国境線を記すのもトラブルの元。この記事と同じ。
*端っこはどこまで東アジアとするかも,実は微妙な問題を含む。この時はそうではなかったが,ロシアの人々を含めた共同研究の場合もあるので,日本の右上をどこまで描くかですら,問題の種になるおそれがある。

 結局,東アジア全域を単色で塗りつぶし,またどこまでが東アジアかもボケた表現とする地図にした。

 また,ある共同研究の報告書で冒頭の中国の地誌に関する部分の原稿を中国人の先生に書いていただいたところ,彼が受けた標準的な地理教育に従い,九段線の内側まで中国とする文章を出してきたので,お願いして変えてもらったことがある。むろん,ベトナムの主張通りに変えるのではなく,どこまでが中国の領土かという話を含まない文章にしていただいたのだ。いや,その先生も日本のことは意識していたのか,尖閣諸島の記述はなかったのだが,それ以外の国との係争地域には考えが及ばなかったのだろう。

 かくして地理は政治である。本学では地理の専攻は理学研究科にあるが,大阪市大では文学研究科にあった。政治経済学的視角が生き残っている分野の一つは経済地理学だ。いずれももっともなことだ。

「アニメ映画「アボミナブル」、ベトナムで上映中止 南シナ海の地図巡り」CNN.co.jp,2019年10月15日。


2019年10月25日金曜日

改憲せずとも戦前を実現できるという『産経』の白昼夢

『産経新聞』論説副委員長榊原智氏の堂々たる論説

 「憲法第1条で天皇の地位が「国民の総意に基く」とあるのは、それゆえだ。たまたま今、生きている国民の多数決に基づくものではなく、過去、現在、未来の国民の総意の規定だととらえるべきだ」。

 いや,「主権の存する国民の総意に基づく」と書いてあるんですけど。いまの天皇は,国民主権を前提に象徴だと憲法で認められているのであって,国民主権でなかった時代の天皇は,全然別の原理だと読むのが普通ですよ。

 「立憲君主である天皇が、憲法に同居する国民主権と矛盾されるわけもない」。

なぜ。どうして。どのように。

「臣下の筆頭である内閣総理大臣が即位される天皇陛下に対して、万歳を三唱するのは自然なことだ」。

 記事のタイトルで憲法守れって言ってますよね。憲法第65条と66条で「行政権は,内閣に属する」,「内閣は,法律の定めるところにより,その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」って書いてありますよ。臣下じゃないですよ。

 榊原氏は,国民主権があろうと,憲法に何と書かれていようと,それに関係なく天皇は君主であり,それ以外の国民は臣下だと言っているのです。ならば,氏と『産経』にとって新聞の役割とは,天皇や皇室について憲法や法律の見地から,その在り方が主権の存する国民の総意に基づいているかどうかを冷静に論じることではないのでしょう。それどころか,臣下として,頭を低くし,ほめたたえ,服従することを,共産党はおろか国民誰に対しても命じるキャンペーンを張ることなのでしょう。改憲せずとも戦前を実現できるという白昼夢,いや,おそれいりました。

榊原智「【一筆多論】共産党は憲法を守れ」『産経新聞』2019年10月22日。

2019年10月24日木曜日

考えようとした『河北新報』:「即位の礼」報道

 『河北新報』の2019年10月23日付朝刊トップは「『国民に寄り添う』 正殿の儀 天皇陛下即位を宣言 各国の元首ら2000人参列」の見出し。左側に小さく「雨続き二次災害警戒」の見出し。
 総合面2-3面は「皇位継承 議論後回し 女性容認の世論とずれ」「天皇陛下お言葉 憲法巡り『順守』→『のっとり』社会情勢への配慮か」「平成踏襲 批判は封印 儀式の骨格戦前が基」などの見出しの他,「厚生年金逃れも立ち入り 厚労省検討 法改正で権限拡大」などの記事が左右に。
 社会面22面は,「天皇陛下即位礼正殿の儀」「被災者に心寄せ」「宮内庁幹部『パレード延期安堵も』」「被災者思いさまざま 見ている暇ない/元気もらえた」などの見出し。
 社会面23面は即位礼の記事はなく,「災害ごみ手付かず」「被災3県 仮置き場増設でしのぐ」「郡山 処理施設浸水でストップ 生ごみ以外の排出控えて」「『面倒見良いリーダー』宮城・丸森小野さん 住民ら急死惜しむ」などの見出し。
 正殿の儀一辺倒ではなく台風被害も大事だという判断をし,儀式のあり方を論じるべきだと提起していることは,考えた上での紙面構成と見たい。
 ヨイショ記事ばかりでは新聞の役割放棄だが,『河北』はそうなるまいと努力した。




無惨な『日本経済新聞』:「即位の礼」報道

『日本経済新聞』2019年10月23日朝刊。1面の見出しは「天皇陛下即位の礼」「『象徴つとめ果たす』正殿の儀,2000人参列」「海外の賓客を歓待」「国民の幸せと世界平和願う 天皇陛下のお言葉」。左側に細長く「離脱関連法案審議入り」と別の記事。
 総合面の2-3面もほとんど即位の礼関係で,見出しは「『祝賀外交』活発 首相,連日の2国間会談」「饗宴華やか 舞楽や和食,おもてなし」「令和の天皇像にじむ」「国民とともに世界に目線」「平成の式典を踏襲 国民主権・政教分離に配慮」。わずかに「ソフトバンクGのウィーワーク支援」の記事。
 社会面の30-31面もほとんど即位の礼関係。見出しは「列島各地心から祝福」「『助け合う時代願う』」「即位の宣明高らかに」「古来からの儀式,厳粛に」「直前に雨やみ晴れ間」「『平和への思い新たに』」など。わずかに小さく「台風の被災地 複雑な思いも」。
 新聞の役割は,何事にも冷静に距離を取って報じ,論じるというものではないのか。そういう視点がほとんどない。もちろん,見出しだけでなく中身も確かめたが感想は同じ。政府から与えられたストーリーにしたがって天皇を賛美するだけの提灯持ちのヨイショ記事が多すぎ,新聞ではなく広報に近い。ある程度覚悟して読んだのだが,それでもげんなりした。


2019年10月21日月曜日

ヴェノナ文書への関心

 ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア(中西輝政監訳,山添博史ほか訳)『ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動』扶桑社,2019年。『ヴェノナ』文書に基づく現代史研究だ。ヴェノナ作戦とは,第二次世界大戦中の1943年から1980年に至るまで,当初アメリカ陸軍の通信諜報部(後に国家安全保障局=NSAに吸収される)によって実施された対敵諜報活動だ。具体的には,旧ソ連の諜報機関であるKGBやGRUとアメリカ国内のソ連スパイ,対ソ協力者との暗号通信を解読する作戦だった。この作戦で解読された文書が「ヴェノナ」文書と呼ばれる。1995年に公開されることにより,旧ソ連がアメリカで行っていた諜報活動の一端が明らかになった。これにより,多くの人々があるいはソ連のスパイや対ソ協力者と判明し,またそう疑われることになったためにスキャンダラスなできごととなった。

 この種の出来事は,本書の帯にあるように「アメリカはソ連の諜報活動に操られていた」という政治的キャンペーンにつながる。本書の邦訳も,帯の推薦文を書かれた江崎道朗氏がおっしゃるように「アメリカでの歴史見直しの動向も無視したまま、戦前の日本「だけ」が悪かったと言い募るような、視野狭窄(きょうさく)はもうやめようではないか」(江崎「「日本を降伏させるな」米機密文書が暴いたスターリンの陰謀」iRONNA,2018年8月15日)というところにあるようだ。

 そんな極論はどうでもよいが,ヴェノナ文書が,まともな意味でも歴史の見直しにつながることも確かだろう。私が個人的に関心を持つのは,ヴェノナ文書には,経済学者として心を動かされる名前も登場するからだ。

 その最たるものはハリー・デクスター・ホワイト,すなわちIMF設立における「ホワイト案」のその人だ。ホワイトがアメリカ共産党員ではなかったが対ソ協力者であり,情報を流していたことはかなり確定的なことらしい。これはさすがに,国際経済関係史の見直しにつながるように思う。

 世間的にはよりマイナーな,しかし私的な研究史から印象深いのはヴィクター・パーロとハリー・マグドフだ。

 パーロはアメリカのマルクス経済学者であり,日本でも多数の著作が翻訳された。私の師,金田重喜氏の最初の公表論文はパーロのThe Empire of High Financeの書評であり,金田氏はこれに『最高の金融帝国』という邦題を当てた(※)。パーロの本書は,金田氏が最も影響を受けた本の一つであった。氏は,私が学部3年の終わりの頃,研究室で「きみはまだ僕の言いたいことわかっておらんね」と言われたことがあった。そして,その翌年度のゼミの教科書にパーロ『最高の金融帝国』を指定された。1958年刊行の訳書をわざわざもう一度引っ張り出されたのは,大学院を受験する私に金融資本論を学ばせたかったからではないかと,今でもうぬぼれ半分に思っている。そのパーロは,戦時工業生産委員会内に潜むアメリカ共産党員のリーダーであり,多くの情報をKGBに流していた。これもかなり確定情報のようだ。

 ハリー・マグドフがヴェノナ文書に登場しているのは,私には意外であった。パーロの場合,アメリカ共産党員であることや,アメリカ共産党が,日本共産党が愛想をつかすほどの極端なソ連追随主義であることは学生時代から知っていたが,マグドフはポール・スウィージーとともにMonthly Review誌を担った,党派に属さないマルクス経済学者として知られていたからだ。私は,岩波新書の『現代の帝国主義』の他,スウィージーとの共著『アメリカ資本主義の動態』,『アメリカの繁栄は終わった!』,『アメリカ資本主義の危機』をよく読んだ。過剰資本論の理解は彼らに学んだところも大きい。そのマグドフも,ヴェノナ文書ではパーロ・グループの一員とされている。ただし,Wikipedia英語版によれば,マグドフは犯罪に関与していないという主張もあるそうだ。

 現在の基準ではソ連への機密文書横流しなど到底正当性を持ちえないことは言うまでもない。しかし,当時,少なからぬ人々がこのような活動に手を染めたのは,どのような動機と論理によるものだったのか。本書からしても,カネのためとか,弱みを握られ脅されたからではない。アメリカ共産党員,あるいはソ連の社会主義体制支持者として,それが正しいものと心から信じて行っていたと思われる。それは,当時のどのような社会的条件の下で,どのようなモチベーションとロジックにより選択されたのか。それが知りたい。

 もう少し歴史的に言えば,「国際共産主義運動」は,いつまでソ連を司令塔とする単一の,国際的ヒエラルキーを持つ運動だったのか。これは,Facebook友人に旧社会主義国の歴史研究の専門家がいらっしゃるので,素人が何かを言えるわけではない。しかし,関心はある。加藤哲郎氏が指摘されるように,国際共産主義運動は,今から見れば非常に特異な形を持った,国境を越えようとする運動だったのだ。私は,それが何であったのかを考えたい。

※ この時,浅尾孝氏による訳書はまだ出版されていなかったが,訳書でも邦題は同じであった。金田氏の書評での邦題を浅尾氏が採用されたのか,あるいは金田氏の方が訳出進行中の予定邦題を知っていたのかは謎である。生前にうかがっておくべきであった。

ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア(中西輝政監訳,山添博史ほか訳)『ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動』扶桑社,2019年。


2019年10月15日火曜日

派遣事業者と職業紹介事業者の労働立法への参画について

 労働分野の立法の検討は政労使または公労使の三者構成だが,労働市場の需給調整機能に関する審議は,派遣事業者または職業紹介事業者を含む四者構成であるべきだとする中村 天江氏の意見が公表された。

 ここまで労働者派遣事業や民営職業紹介事業が定着した今,傾聴に値すると思う。

 労働者派遣事業や民営職業紹介事業に対する政策が,長らく規制し,制限するという趣旨であったのは,歴史的経過から中間搾取が懸念されていたからであるが,実は企業内労働市場と,学校が職業紹介に関与するしくみによって,労働力需給調節機能が担われていたからでもある。中間搾取の懸念は今なおあるが,企業内労働市場と学校による職業紹介機能は徐々に弱体化しており,いまさら労働者派遣や民営職業紹介なしでやっていくことはできない。となれば,課題は業界の発展を抑えることではなく,現代化することだろう。

 実際,中村氏が紹介している派遣労働者の同一労働同一賃金について,当初,派遣先での類似職務に就く直接雇用労働者との同一性だけが当たり前のように議論されていたのを,労働市場の相場をもとにした派遣元での,派遣先の個別性にとらわれない同一性という基準も盛り込んだ例は重要だ。後者は派遣事業者の観点だ。つまり,よく機能する派遣事業というのは,企業横断的な同一労働同一賃金を促進するものなのである。

 労働者派遣事業をブラック職場にしてはならない。しかし,派遣事業の拡大を阻止し,縮小させようとすることはもはや非現実的であり,誤りでもある。その存在を認め,現代化を促し,労働市場の専門的担い手として活動できるようにすることが,政策の基本視点であるべきだろう。

中村天江「労働市場政策100年目のターニングポイント―「三者構成原則」のままでよいのか?」リクルートワークス研究所,2019年10月11日。

岡橋保信用貨幣論再発見の意義

  私の貨幣・信用論研究は,「通貨供給システムとして金融システムと財政システムを描写する」というところに落ち着きそうである。そして,その前半部をなす金融システム論は,「岡橋保説の批判的徹底」という位置におさまりそうだ。  なぜ岡橋説か。それは,日本のマルクス派の伝統の中で,岡橋氏...