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2020年9月5日土曜日

塩川伸明『歴史の中のロシア革命とソ連』(有志舎,2020年)が提起した問題

 塩川伸明『歴史の中のロシア革命とソ連』有志舎,2020年。第1,2部を中心とした読後感です。

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 私はロシア史は素人にすぎないが,マルクス学徒の一人としてロシア革命からソ連崩壊に至る経過には,ありがちな程度の関心は持ってきた。塩川氏の研究に最初にどう接したのか正確には思い出せないが,おそらく1990年代に大阪の古書店で購入した『「社会主義国家」と労働者階級:ソヴェト企業における労働者統轄 1929‐1933年』(岩波書店,1984年)が,私になじみのある経営管理論(エルマンスキー,藻利重隆,山本潔らの研究)のロジックを用いて,ソ連における労働合理化方式の科学化・近代化の過程を論じていたのが非常に面白く,それをきっかけに氏のペレストロイカ期に関する同時代的論稿を読むようになったのだと思う。

 当時私が塩川氏の論稿に衝撃を受けたのは,ソ連崩壊が,党・国家の癒着した支配や集権的計画経済が崩壊したのみならず,旧来の社会主義を何とか改革しようとする努力が挫折したことの深刻さを示すことを示唆していたからであった。

 この度刊行された本書においても,この論点は強調されている。ペレストロイカから崩壊までのソ連においては,「「民主的な社会主義」「自由と人権の尊重」等の目標がこの国と無縁だったわけではなく,一時期それなりに熱心に追求された後に挫折したという事情」が深刻なのである。「現代世界で自由・民主主義・公正・人権などといった価値と『新しい社会主義』を結び付けようと考えている人たちにとって,末期のソ連は「それを目指さなかったから無縁」というものではなく,むしろ「それを目指しつつも挫折した」事例として,他人事でない」からである(20頁)。旧ソ連は真の社会主義ではないとして,自分たちはもっと違う社会主義をめざしたいとする人々も,旧ソ連の歩みを学ばなければ同じ轍を踏むかもしれないという警告だ。

 とはいえ,このような警告を警告と受け止めるには,読者の側の一定の問題意識が前提される。つまり,塩川氏の提起は,党・国家社会主義とは別の社会主義が望ましいか,少なくともあり得るかもしれないという問題意識を持つ,私のような読者には深刻である。しかし,はなからそんなことは考えていない読者には響かないかもしれない。むしろ《著者の言う通りで,社会主義も社会民主主義も非現実的で結局挫折するものなのであり,資本主義とリベラル・デモクラシー以外には何もあり得ない。多少のバラエティがあろうが何だろうが,それしかない》と読まれることもあり得る。つまり,この論点だけだと,塩川氏の強調するペレストロイカ期の紆余曲折にもかかわらず,その試みがみな挫折したが故に,かえって《やはりソ連崩壊は唯一必然の道で,何も幅のある話ではない》と解釈される可能性がある。

 しかし,本書は,実はそうした単純化にからめとられない,より進んだ論点を提起しているように思う。つまり,指令経済から市場経済への「軟着陸かハードランディングか」「破局を伴うことなしにそれを実現することができるかどうか」という問題であり(40-41頁ほか),もう少し違う形で言うと「現実政治における中道路線の困難性という問題」である。「ゴルバチョフに象徴される『中道』(漸進的手法による革命)は,『漸進的』側面に対する急進派の批判と,『革命的』側面に対する『保守派』からの批判の両者の間で股ざき状態となった。政権中枢への両翼からの激しい攻撃が高まる中で,政治闘争は一層昂進していった」(90頁)。この困難がソ連を崩壊させ,対外的には「欧州共通の家」路線を挫折させ,欧州分断を克服できずにそのラインを東へ寄せる結果を招いたという因果をたどることには意味があると思う。

 なぜなら,このような因果関係に注目することによって,ソ連崩壊は《ソ連の体制に問題があるが故の必然》でもないし,分断ラインの東への移動は《当時のソ連が対外的に弱体化したが故の地政学的必然》でもなくなるからである。当時のソ連だけの問題ではなくなるのである。

 ここでこの股裂き状態を規定する構造を,本書に即してもう少し具体的に言えば,ゴルバチョフらの「体制変動を暴動・放棄・瓦解などといった暴力的形態でなく漸進的改革の道をとって平和裏に進めようとする路線」(95頁),「漸進的・改良的手法をもってする革命」が,それを進めていくに従って矛盾につきあたったということである。

 一つは,本書ではそれほど取り上げられていないが経済改革である。集権的統制の解除と市場経済化は大きな制度改革であり,ある程度以上進めようとすると,権利・義務・取引のルールを国家権力を持って定めていくことがどうしても必要になる。ところがこの改革は進展するにつれ,誰もが得をするパレート改善ではなく,一部の人々・組織の権限をはぎ取り,所得を減らす可能性,少なくとも短期にはそうする可能性がある。しかも,改革に期待した人々に対してもである。とくに上からの改革の場合は,旧体制下における既得権益を形を変えて防衛していると解釈される可能性もある。ゴルバチョフらの社会民主主義路線が「旧体制から決別しきっていない」という批判である(22頁)。したがって,改革反対派のみならず改革支持派内部からも抵抗が強まる。

 もう一つは政治改革である。「政治改革の開始はかえって紛争続発や犯罪急増といった社会的混乱を招いた」(21頁)からである。それでも改革を進めるか,秩序維持を優先するかという問題が生じる。しかし,社会的混乱を一時容認しようとしても強権的に秩序を回復しようとしても,改革支持派と改革反対派の両方から非難される可能性がある。

 三つめは対外関係である。ゴルバチョフらにとっての改革とは,ブレジネフ・ドクトリン,つまり東欧諸国に対する軍事力を担保とした干渉をやめることである。しかし,やめればNATOが東欧諸国を取り込もうとすることは避けられない。そこに,軍事的に対応するのをやめた場合,衰退するソ連国家の外交力だけで対抗することは困難であった(第6章)。このような路線を進める指導部に対しては,国内で地政学的権益を重視する立場から非難が起こる。

 これら,改革を進めるが故の困難は,一方で改革阻止の圧力を生み,その対極に改革実行のためには「権威主義」が必要だ,ピノチェトが模範だという主張を浮上させた(21,109頁)。

 私はこれは,体制がすでにボロボロになっていたという旧ソ連固有の問題ではなく,より普遍的な困難であるように思える。例えば,池田嘉郎『ロシア革命 破局の8か月』(岩波書店,2017年)を読んだ後に本書を読むと,ゴルバチョフが直面したジレンマと1917年に臨時政府が直面したジレンマは,私には重なって見える。いずれも民主化と経済再建という課題に耐えきれずに政権から滑り落ち,「合意形成や法的手続きを軽視して革命的突撃の手法に訴える」ボリシェヴィズムや「逆向きのボリシェヴィズム」に敗北した(23頁)。どうして方向性が逆向きのところに類似性が現れるのか。塩川氏はそこに「『民衆』の名において,その敵を排撃し,法的手続きを軽視する」という,ポピュリズム現象と「ボリシェヴィズムとの意外な共通性」(27頁)を見出している。政権を突き上げる一方の勢力に注目すればそうなるだろう。しかし,反対側にも別な勢力がいるし,政権は両者に挟まれる。それらの諸アクターを含めて,もう少し距離を取ったところから見てみると,違う表現ができるように思う。ここには,激しい利害対立を伴わざるを得ない状況下で「自由」や「民主主義」や「人権」を掲げて合意形成による体制改革を進めるとき,とくに自らの支持基盤の利害に一部ないし短期的には反してでも進める時に起こる政治変動の問題が潜んでいるように思う。その改革が右を向くものであれ左を向くものであれ,である。そのようにとらえると,ソ連解体期の問題は,旧ソ連だけの特殊な問題ではなく,現在でも,多くの諸国で多くの政治勢力が直面しうる問題だと思えてくるのである。

塩川伸明『歴史の中のロシア革命とソ連』有志舎,2020年。



2020年8月28日金曜日

雇用調整助成金の限界とその「次の一手」について考えなければ

 雇用調整助成金の特例措置期限が,9月末から12月末に延長される見通し。失業を防止する効果があるのでとりあえずは望ましいのだが,問題はいつまで雇用対策をこの制度に頼れるかだ。

 雇用調整助成金は,従業員に休業手当を支払った企業に支給されるものだ。つまりは,不況で操業度を落とさざるを得ない企業に対して,従業員を解雇せずに休業させるならば賃金(休業手当)の一部を助成しようというものだ。この制度は,当該企業にとっての活動水準低下が一時的であってやがて回復するならば,労働者にも企業にも社会全体にもプラスの効果が期待できる。労働者にとっては失業しなくてすむし,企業にとっては技能のある労働者を失わなくてすむからだ。社会全体としても,一時的な不況の際に失業率を上昇させずに済む。

 問題は,活動水準低下が一時的でない場合である。これには2種類あって,一つはマクロ的な需要低下が長引き,経済全体が不況からなかなか脱出できない場合,もう一つは産業構造が転換し,他の企業は成長しているが当該企業の活動水準が回復しない場合だ。このような状況が見通されてくると,雇用調整助成金は,企業にとっての効果が薄れる。つまり,不況から脱出した際に労働者を呼び戻して働いてもらう動機がなくなるからだ。また,社会的にも不合理になってくる。前者の不況自体が長引く場合,失業対策の基本は需要拡大策に置かねばならず,いつまでも企業に労働者の抱え込みを促すわけにはいかない。また後者の産業構造転換の場合,需要が拡大している分野への労働移動を促さないと,成長分野では人手不足,衰退分野では雇用抱え込みということになり,労働市場が機能しなくなる。

 コロナ危機の問題は,この不況長期化と産業構造転換が両方とも生じそうだという事であることである。そうすると,やがて雇用調整助成金では対処できなくなる。その時にどうするのか。

 単純に考えれば方策は三つである。一つは,需要拡大による雇用創出だ。これを感染拡大防止と両立する形で行わねばならない。二番目は,やがて失業が増えることを踏まえて,失業給付と職業訓練への助成を手厚くすることだ。つまり,失業する人が出ることを前提とした上で,生活を支え再就職を支援するのだ。三番目は,「失業なき労働移動」を促すことだ。

 実は,安倍政権は当初は三番目の路線を狙っていた。そのために,労働移動支援助成金を拡充しようとして2014年度から予算も大幅に増額していた。この制度は,事業規模の縮小等に伴い離職を余儀なくされる労働者がいることを前提に,その再就職を援助する措置等を講じた企業に助成金を支給するものだ。雇用調整助成金より支給額を多くするという目標まで立てられた。

 しかし,労働移動支援助成金は,ほとんど意図通りに機能していない。まず単純に考えて企業の側にインセンティブがない。整理解雇や早期退職だけをするのでなく訓練してあげようという善意がある場合,あるいは整理解雇すると紛争になるのを恐れてこの制度を用いざるを得ない場合と言う,規範的動機にたよって利用してもらうものである。そこが雇用調整助成金と異なる。インセンティブがあったのはモラル・ハザード的な利用であった。つまり,人員削減を余儀なくされたからこの制度を用いるのではなく,この制度を梃子にし,職業紹介会社と組んで人員削減を進めようという企業が出てきた。その危険を受けて,2016年度から抜け穴を防ぐ措置が取られたが,その結果,もともとの使い甲斐のなさにより利用されなくなっている。

 安倍政権は成立当初,「失業防止」から「失業なき労働移動」に舵を切ろうとしていた。ところが労働移動支援助成金が機能せずに暗礁に乗り上げていた。そこにコロナ危機に襲われ,雇用調整助成金による「失業防止」に頼らざるを得なくなった。これが現在の局面なのである。そして,安倍政権は終焉を迎えることが本日確定的になった。

 今後,一定数の企業で一定の労働者が離職を余儀なくされることは避けられない。しかし,おそらく労働移動支援助成金は機能しない。政府は現在,次の手を持っていないのだ。

 不況自体が長引けば,感染防止策と両立するような雇用創出策が必要になる。産業構造転換が強く作用するのであれば,「失業なき労働移動」のための新たな政策開発が早急に求められる。それが無理ならば,最低限,常識的な措置として失業給付と職業訓練への公的助成を手あつくすることが必要だろう。いずれにせよ,雇用調整助成金の「次の一手」の研究は急務である。

2020年8月23日日曜日

「日本経済」講義におけるマクロ経済政策論の反省

 メモ。今回の「日本経済」講義内容で不足していた点の反省。

 アベノミクスが,事実上金融緩和一本やりで景気を浮揚させようとして,どこまで効果があり,どこから効果がなかったのかは明確にした。ケインズの流動性選好論と資本の限界効率の不確実性論を用いて,企業が投資をせずに現金・有価証券を積み上げ,個人が消費をしない(ただし低所得層については,端的に消費するお金がない)現状を示した。

 これ以上のことは金融政策ではできず,「低成長・人口減少・高齢社会」への不確実性と不安を和らげるような財政・社会政策が必要になる。財政は常時赤字でも問題はなく,プライマリー・バランス黒字化という政策目標にこだわる必要はない。ただし,それにかわって悪性インフレとバブルを起こさないための政策目標が必要である。

 ここまでは丁寧に講義した。問題はこの先だ。

 財政政策を用いるとしても,財政の量的拡張と質的組み換えは異なる。たまたまコロナ危機が襲来したために量的に拡張するしかない情勢となったが,コロナ危機以前の状態で,本来はどちらが重要なのかは重要な論点であった。そこがうまく言えなかった。

 注意しなければならないのは,アベノミクス下の「実感なき景気回復」では完全雇用は達成されていないのに,有効求人倍率は失業率は低いということだ。これは日本社会が高成長期以来一貫して「全部雇用」であることによる。大企業の雇用保蔵,家庭とパートを行き来する女性や高齢者,先進国最大の比率を持つ自営業セクターのため,不況になっても,景気回復が不十分でも失業率は低いのである(野村正實『雇用不安』)。

 失業率が低いということは,雇用の量的拡大策が有効に作用しないということを意味する。だから,ダムが無駄がどうかは別にしても,公共事業を拡大しても効果は薄い。現に昨年までそうなっていたように,人手不足なのに賃金が上がらず,非正規の賃金で生計を立てざるを得ない世帯は増え続け,貧困は拡大してしまう(これは雇用対策として効果が薄いという意味であって,老朽インフラのメンテなど有意義な公共事業もあることを否定していない)。

 こうなると,MMTが主張する雇用保障プログラム(JGP)も容易ではない。失業対策事業を政府が行なうと言っても,そもそも失業者があまりいなかったからだ(もっともコロナ危機で増えるとすれば,この方策は有効性を持つかもしれない)。

 このような状態では,財政政策を拡張するにしても,有効なのは公共事業による雇用創出策ではない。そうではなく,教育や医療や介護の負担を下げることや,非正規労働者の状態を改善することや税の累進性による再分配強化などにお金を使わねばならない。となれば,財政は量的にも拡張するとしてもそれは結果であり,むしろ重要なのは質的転換である。そういう風に理解するならばワイズ・スペンディングという言葉も的外れではない。

 せっかく全部雇用論や非正規拡大の傾向について論じたのだから,それによって有効な財政政策の中身が決まってくることを,もっと労働市場論と財政政策論を整合させる形で言うべきであった。そこが不十分だった。

 もう一つの問題は,このような政策による支出増と歳入の関係であった。必要な政策が公共事業拡張ではないとすると,(コロナ対策の給付金やや一時的減税は別として)むしろ恒常的な医療・教育・福祉・労働改革としてやるべきことが多い。そこに追加支出を伴うとすれば,それは景気対策としての一時的支出でなく,恒常的な支出になるということに注意しなければならない。景気循環に関わらない恒常的な支出と歳入の関係をどう設計するかだ。これは,MMTの財政赤字容認論に立つとしても,考える必要がある。

 なぜか。政府債務が存在し,増え続けること自体は問題ではない。債務を完済する必要もない。しかし,インフレ(為替レート下落を含む)とバブルは,歳入増・支出減によってチェックしなければマクロ経済は安定しない。MMTに立つとしても,財政を緩めるべき時に緩め,引き締めるべき時に引き締めるという必要性は変わらないのである。とすれば,恒常的な支出増を赤字国債で賄うことは慎重であるべきだ。景気循環を通して赤字を構造化させてもよい範囲というのは,理論的には存在する。しかし,実際にその許容水準をどう設定するかは非常に難しく,その検討を慎重に行わねばならない。

 この問題の難易度を下げるためには,反循環的税制により,好況期の税収増/支出減・不況期の税収減/支出増というビルト・イン・スタビライザーを強く作用させる必要がある。税の累進性や資産課税を議論する際に,再分配効果とともに景気循環への作用も考えねばならない。

 財政赤字容認論に立つにしても,景気対策の一時的支出増と恒常的支出増を区別した次元で論じることが不十分であった。

 もっとも,ここまでの答えを講義で述べていないからこそ,今後の財政・金融政策を考えさせるレポート課題を出すことができたともいえる。唯一正解のない話でも,授業で教員が自分の思う答えを言いすぎると,学生はその通りに答案を書いてしまう。あるところから先は自分で考えてもらう方がよい。その見極めが難しい。

2020年8月21日金曜日

ついに通貨供給量が増え始めたが,アベノミクスが成功したからではない

 アベノミクスが狙ったメカニズムのうち,もっとも主要なものでありながらもっともうまくいかなかったのが,通貨供給量の増大である。いくら日銀に国債を買い上げてもらっても,市中に通貨が供給されず,日銀当座預金が積まれたままになったのだ。これを金融用語でいうとマネタリーベースは増えたがマネーストックが増えなかったということになる。

 ところが,ここへ来てマネタリーベースとマネーストックがともに急上昇している。2020年7月の前年同期比伸び率が,マネタリーベースは9.8%,マネーストック(M2)は7.9%に上った。過去,これを上回る伸び率が記録されたのは,マネタリーベースは2017年12月にさかのぼり,マネーストックに至っては1990年12月である。マネーストックのうち預金は14.1%も伸びており,企業が法人預金を増やしており,個人や商店にも給付金が支給されたために預金が増えているということによると思われる。もっとも,現金も5.6%伸びている。

 ついに通貨供給量は伸びたのであるが,アベノミクスがついに聞いたわけでもないし,これで物価が上昇するどころではない。マネーストックの伸びは,主に法人も個人も流動性確保のために預金を積んでいる動きの方を反映しているので,要は不況の悪化に身構えているのだ。給付金が支出されたために伸びた部分もあるだろうが,そちらはマイナー要因だ。前者はデフレにつながり,後者はインフレにつながるが,前者の方が強い。

 しかし,日銀当座預金だけが積みあがって市中にお金が出回らなかったこれまでの7年半とは異なる動きが,マネーに生じていることは確かであり,今後とも注意を要する。通貨供給量が増えたと言っても,その増え方次第でデフレ要因ともなり,インフレ要因ともなり,バブル要因ともなるからだ。


川端康雄『ジョージ・オーウェルー「人間らしさ」への賛歌』岩波新書,2020年の読後感

 川端康雄『ジョージ・オーウェルー「人間らしさ」への賛歌』岩波新書,2020年の読後感。

 私がオーウェルを読みふけったのは大学院生の頃であり,つまりは社会主義というものを単純にではなく,もっと様々な角度から理解しなければならないと思っていた頃である。今は時代と人生が一回りして,かえってプリミティブなことを赤面もせずに書くようになったが,当時は一応,物事は単純ではないという方向に頭が向いていた。『1984年』は最初,自分の持ち物でないハヤカワ文庫で読み(SF研の部室にあったのかもしれない),その後に早川書房のハードカバーを蔵書にした。本棚にオーウェルコーナーをつくるくらいには大事にしていた。だが,文庫本の棚に入れていた角川版『動物農場』を失くしてしまったのが痛い。

 川端氏(親戚ではない)の著書はオーウェルの伝記としてコンパクトながら詳細である。今回読んだおかげで,自分がオーウェルを読んで何をどう思ったのかをいくらか思い出せた。本書がオーウェル研究史の中でどういう位置にあるのかは,残念ながら私にはわからない。

 この書物は,副題にある通りオーウェルの思想を「人間らしさ」への賛歌に代表させている。ここで「人間らしさ」というのはdecencyである。イギリス英語の文脈は私には全く分からないが(本当に教養がない),話としてはうなずける。しかし,腑に落ちないのは,本書が『動物農場』や『1984年』に見られる,「ディストピアの言語学」,「言語決定論」,つまりは言語による思想支配に対して,「人間らしさ」を対置して終わりとしているように見えることだ。対置すれば言語による支配を免れるというものだろうか。

 著者はわざわざ「ニュースピークの実現(不)可能性」という項を設けて,「権威主義的言語がいかに『単声』たることをめざしても,それがこの小説の形によって権威をはぎとられる」として,オーウェルは「ディストピア世界を描きながら,その裂け目を広げる道を示唆している」という。それは,確かにそうだろう。しかし私には『1984年』は,それがどんなに困難な道であるかをも示した作品だと思える。言語による思考と感情のコントロールは,拷問によってウィンストンに心にもないことを言わせるのではなく,本心からビッグ・ブラザーを愛するところまで持っていくのである。「人間らしさ」も,党は党なりに定義してこれを回収しようとするだろう。そうした権力と言語の結合が,当時のソ連のみならず,現在でも世界に広く行き渡って一定の威力を発揮しているのはなぜなのか。何にどう依拠すれば,そこに裂け目が見つかるのか。どうすればそれは押し広げられるのか。それは,私には非常に困難な課題であり,悲観的にならざるを得ない課題のように思える。正直,「人間らしさ」でどうにかなるならば,ソ連も中国も北朝鮮もトランプも安倍晋三も何とかできただろう。それが容易でないから,どう容易でないのかを考える必要があるのではないか。

 本書は,おそらく精緻なオーウェル伝として優れているのだろう。けれど,私個人の読後感としては,言語のディストピアに対して「人間らしさ」で歯が立つような気がしなかったのだ。



靖国神社への閣僚参拝は「中韓から言われること」だ

  靖国神社に参拝した衛藤晟一領土問題担当相が「われわれの国の行事として慰霊を申し上げた。中国や韓国からいわれることではないはずだ」と発言したそうだ(「衛藤担当相 靖国参拝「中韓からいわれることではない」 記者に反論」『産経新聞』2020年8月15日)。

 何を言っているのだろうか。靖国神社は中立的な慰霊の場所ではない。大日本帝国が行った戦争を自衛のためのやむを得ざるものと肯定する特定の歴史観を宣伝する団体である。大日本帝国に尽くした軍人・軍属だけを祀る神社である。

 だから,閣僚がそこに参拝することを中国や韓国が批判するのは当たり前である。仮にそれが正しいと認めるかどうかは別にしても,「中韓からいわれること」なのである。衛藤担当相は,批判が間違っていると思うならば,「靖国神社の戦争観が正しい。大東亜戦争は自衛戦争であった」と堂々と言ってみてはどうか。それがさすがに無理だから,靖国神社に特定の価値観はないかのように言い張ってごまかしているのではないのか。


教育基本法第9条2項の規定を教員の解雇を制限する根拠とした奈良地裁判決

 田中圭太郎「奈良学園大学、学部再編失敗し教員大量解雇…無効判決で1億円超支払い命令、復職を拒否」Business Journal,2020年8月16日。

 ・この報道の通りだとすれば,教育基本法第9条2項の規定を教員の解雇を制限する根拠とした点で重要な判決と思う。

・ただ,専任教員と再雇用教員で判決が異なった理由はよく検討する必要があると思う。職責の区分ならばあり得るが,正規・非正規の身分差によるのであれば問題が残る。

・私学の理事会であれ国公立の理事会であれ,「ガバナンス改革」と称して裁量的経営を推進するのは経営学のイロハを知らない所業である。確かに経営者には一定の権限が必要だ。しかし,経営者は組織の主権者ではない。だから営利企業でも,株主主権なのか利害関係者統治なのかが問題になる。大学においても,経営者の経営裁量を誰がどうチェックすべきか問われねばならない。教員という専門家集団によるチェックは,依然として必要である。

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教育基本法

第九条 法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。

2 前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。


岡橋保信用貨幣論再発見の意義

  私の貨幣・信用論研究は,「通貨供給システムとして金融システムと財政システムを描写する」というところに落ち着きそうである。そして,その前半部をなす金融システム論は,「岡橋保説の批判的徹底」という位置におさまりそうだ。  なぜ岡橋説か。それは,日本のマルクス派の伝統の中で,岡橋氏...