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2020年1月6日月曜日

井上智洋『MMT 現代貨幣理論とは何か』講談社,2019年を読んで

 本書は,MMTの経済学的な主張をなるべくわかりやすい形で考察しようという本であり,日本経済の現状分析やMMT派の政策宣伝,またMMT派や否定派の双方にありがちな論敵への批判を重点に置いた本ではない。その点では,MMTを冷静に理論的に考えることに向いている。私もそういうものとしてMMTと本書の主張を経済学的に考えたい。
 著者はMMTに全面的に賛同しているわけではない。第1章でMMTの提起する論点を3つ挙げ,「(1)財政的な予算制約はない」に賛同し,「(2)金融政策は有効ではない(不安定である)」に保留し,「(3)雇用保障プログラム(JGP)を導入すべし」には反対で(25-28ページ),むしろベーシック・インカム(BI)を支持している。
 第1章から第3章までは,MMTの貨幣論の基礎的解説で,他の解説本と変わりはなく,大まかにはコメントすべきことはない。しかし,もちろん解説書としてこれらの章には意義がある。実は,通貨発行権を持つ国家は自国通貨建て債務についてデフォルトすることはないという基本論点は,専門家レベルでは主流派経済学者も財務省公式見解も含めて議論の余地がない(19-20ページ)。しかし,直感に反するため一般的にはなかなか理解されにくく,すべてのMMT解説本は繰り返し説明しなければならない。大儀なことであるがやむを得ないだろう。
 第4章では,著者は金利政策によってインフレ率をコントロールできるかという問題を立てて,あれこれ考察した末に保留している。著者は右下がりの貨幣需要曲線が存在するかどうかを「右下がりのグラフがおよそ安定的に成り立つと考えています。ただ,MMTの主張を頭ごなしに否定しているわけではなく,実証分析の結果をよく精査して判断すべき問題と思っています」という(91ページ)。しかし,私はこの姿勢に疑問である。著者は本章でミンスキーモデルを紹介し,またなぜかこの章ではないところでアニマル・スピリッツと流動性選好の作用に肯定的であり,さらにキーストロークによって通貨の創造が可能であることを認めている。つまり,投機的な需要は利子率の動きに左右されず,実質利子率は流動性選好に左右されて不安定になり,アニマル・スピリッツに左右されて投資の意思決定は不確実であり,利子率は貯蓄と投資を裁定するのではないことを認めている。なのに,金利が下がれば貨幣需要は増えるという関係の安定性を首肯するところは納得しがたい。
 第5章ではJGP,すなわち政府が「最後の雇用者」として希望者全員を一定の賃金で雇用することによって完全雇用を実現するというMMTの政策提言について論評している。著者は,「最大の問題点は,政府が雇用した労働者に何をさせるかということにあるでしょう」(115ページ)とし,それがプロフェッショナリティを必要としない仕事であるならばそのような仕事がそんなにあるのかと問いかけている。そして,無駄な仕事をさせることになりかねないので,それよりはBIを実現して,多くの人々が労働する必要がなくなる「脱労働社会」を実現することを推奨している。私は,著者のJGP批判は,政府が適切な職務を適材適所で割り振れるのかという,いわゆる「政府の能力」問題の指摘として一理あると思う。しかし逆に,BIを実行した場合に,購買力だけが肥大化して必要な財・サービスが不足するディマンド・プル・インフレ,あるいはボトルネック・インフレ(それはコスト・プッシュインフレの形をとる),さらに経常収支赤字の拡大を招かないかという疑問を持つ。またもう一つ,現代社会には医療や介護や教育や科学研究や技術開発や環境保全のように,実物やサービスの給付や市場メカニズムだけでは保証されない領域があり,それらはたとえ「政府の能力」問題があろうとも,公共セクターの雇用を拡大し,公共サービスを供給しなければ対処できないと思える。どうもこの章を読んでいると,著者は現代資本主義の問題を<仕事の機械化が進み,財もサービスも十分あふれていて,専門性の高い仕事以外は人間にはやりようがない>という風にとらえているように思えてくる(未読だが,あるいは著者の別の著作『純粋機械化経済』はそう言っているのだろうか)。しかし私は,<なすべき仕事がなされないままに,人は失業し,機械や物資は遊休している>という資本主義観に立つ方が有効ではないかと思う。私はJGPを肯定してBIを否定するわけではない。初歩的BIとしての負の所得税なら実行しやすいできるのではないかと思っているし,JGPにはミスマッチや専門家不足という問題もあると思う。しかし,だからといって著者のようにBIをJGPよりよしとする考えには強い疑問を持つ。
 第6章は,なぜか再び「政府が永遠に借金し続けることは可能だろうか」(126ページ)という問題に戻り,経済理論的な考察によってこれに回答している。著者は,たとえ主流派経済学を基礎にした「貨幣的成長モデル」にしたがっても,経済の実質成長率に対応して貨幣成長率を維持しないとデフレになることを確認する。ということは,中央銀行と政府を一括して統合政府とみなし,貨幣が政府債務であることを認める限り,経済成長とともに政府債務は増えざるを得ないのであって,これは主流派経済学でもMMTでもかわらないのだという。おそらく著者は,これが相当うまい理論的サーカスだと考え,財政赤字タカ派論はもとより赤字ハト派論,つまり「短期には赤字があってよいが長い目で見るとしても均衡財政は必要だ」論に対する反論,あるいはそれらへの説得として巻末に置いたのだろう。主流派経済学でもMMTに準じることを言っているのと同じではないか,というのである。しかし私は,著者はかなり急所を突いているが,赤字タカ派や赤字ハト派,つまりは短期・長期の均衡財政論を覆すには十分ではないと思う。なぜなら,財政均衡論は通貨の債務性を実質的に認めていない場合がほとんどだからだ。学問的なものであれ通俗的なものであれ,財政均衡論は国債は政府債務だと考えて重視するのだが,中央銀行当座預金や中央銀行券がいくら増えても債務の増大として問題にしない。そして,こうした態度の学問的裏付けとして,貨幣は実質的には信用貨幣(債務)ではなく価値シンボルだとし,政府は価値シンボルを何らかのヘリコプターマネーで供給し,強制通用力で通用させていると主張するのである。だから財政均衡論者は著者に説得されず,<通貨は債務ではないのだから,通貨を増大させる必要性と政府債務増大の必要性は関係ない>と言い張るだろう。
 しかし,私は,著者は問題の所在は突き止めたとも思う。財政均衡論は,通貨=債務という信用貨幣論を拒否することで,通貨の増大=政府債務の増大という現実を否認している。よってこの誤りをただすには,通貨=債務という信用貨幣論の承認がどうしても必要なのである。MMTは信用貨幣論という貨幣論をとるからこそ,政府債務増大が自然なことだと主張できるのである。本書末尾に置かれたこの章は,的の中心を射抜かなかったものの,MMTがどのような的を射抜くべきか,どうしてMMTは弓の引き手にふさわしいのかを示す思考の踏み台としては,よい位置に置かれていたと,私は思う。
 以上のように,本書は,私自身が賛成できる部分もできない部分も含め,MMTをめぐる論争に一石を投じるものと言える。読者が,著者や互いの政治的立場性や学問的正統性を性急に問うのではなく,本書を材料に経済学的な討論を深めることが望まれる。

井上智洋(2019)『MMT 現代貨幣理論とは何か』講談社。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000327823


2019年12月26日木曜日

マイケル・ポーター「多くの立地にまたがる競争」とホンダの事例

 大学院前期課程講義の特論テキスト。今回はMichael Porter, Competing Across Locations: Enhancing Competitive Advantage through a Global Strategy, in Porter, On Competition, A Harvard Business Review Book, 1996(マイケル・ポーター「多くの立地にまたがる競争」『競争戦略論II』ダイヤモンド社、1999年)だ。実は、この論文はポーターの主要な理論が結集されていて、1本で競争戦略論も価値連鎖論も戦略本質論も国の競争優位論もグローバル戦略論も学べる超便利論文だと私は思っている。その上、比較優位論やヴァーノン説やハイマー説への事実上のコメントが巧みに織り込まれている。アイディアを提示し、従来のアイディアを統合してナラティブを作り出す、ポーター教授の論文をなめてはいけない。最近、経営学関連の出版物では、「学術論文をちゃんと学べ」と言いたいあまりなのだろうが、ポーター教授の一般向け論文が学術論文とは違うことをことさらに強調する傾向がみられる。私はこの傾向に賛成できない。




 とはいえ、この論文は事例がだいぶ古くなっているので、「この事例は実は当てはまらないのか、形を変えているがやはりこの理論の事例になるのか」という点検は必要だ。ノーザン・テレコムがもう存在しないとかいろいろあるのだが、何よりホンダの事例が問題だ。例えば「ホンダは、自動車とオートバイ双方のホームベースを日本に置いており、高度な活動のほとんどは日本で進めている。ホンダのオートバイ製造能力の76%、自動車製造能力の68%は日本国内に立地する」というところは、現在では全く異なる。しかし、私はオートバイ事業の状況しか把握していないが、現在までのホンダの歩みは、むしろ分野別の複数のホームベース、そしてホームベースの移動の例として、いまもふさわしい。

 これを示すには、横井克典先生の『国際分業のメカニズム』同文舘出版、2018年に掲載されている以下の図が便利だ。この図は素晴らしい。図の読み方は各自、同署にあたっていただきたいが、かつて三嶋恒平氏が大学院生の時に東南アジアオートバイ産業論の研究支援をした経験からすると、この図を完成させるまでに血と汗と涙が流れまくるほどの実態調査、事実の発見が必要だったことは間違いない。宣伝を兼ねるので転載をお許し願いたい。



ベトナム国有鉄鋼企業TISCOの第2期工事停滞問題:本質は国有企業改革の失敗だ

 ベトナムの国有鉄鋼企業TISCO(タイグェン・アイアン・アンド・スチール・コーポレーション)の第2期工事停滞問題は,ついに商工省元幹部や親会社VNスチールの元・現役員の党規律違反や逮捕を問う事態に発展した。私がインタビューしたことのある人も責任を問われている。
 英語記事を読んでも,何にどう違反(violation)したのか,党規律なのか法律なのかがはっきりしない。いずれにせよ私には,個々人が悪意や私欲のために動いて規律や法を犯したことが本質だとは思えない。
 根本にあるのは,国有企業であるVNスチールを支援もせず,しかしガバナンス改革もせずにいたというベトナム政府の企業改革上の無策である。財政支援を受けられず,だからといって民営化や経営効率化を迫られるわけでもなかったVNスチールは,漫然と量的拡大投資を続け,それらの多くが中途半端で競争力のない設備になった。その最悪の例がTISCO-IIであったということだと思う。

参考
川端望「ベトナム国有鉄鋼企業の衰退とリストラクチャリング」

「ハノイ党委書記のハイ氏、副首相在任中の違反で処分へ」VIET JO,2019年12月11日。

2019年12月24日火曜日

レイモンド・ヴァーノンのプロダクト・サイクル論と大都市圏研究

 Raymond Vernon, “International Investment and International Trade in the Product Cycle, Quarterly Journal of Economics, Vol. 80, May 1966.プロダクト・サイクル論の元祖である。大学院でもう少なくとも7回講義しているのだが,今回は,ヴァーノンがこの論文以前に行っていたニューヨーク大都市圏研究との関係をとりあげた。これは経済地理学者には当たり前のことなのだが,今回ようやくヴァーノン(蝋山正道監訳)『大都市の将来』東京大学出版会,1968年(原著1960年)を併読して論じることができた。

 ヴァーノンの理論には,一般的な立地法則がきれいにモデル化されている側面と,実は市場の不完全性を強く指摘している側面という二面性がある。ここでは前者を取り上げる。プロダクト・サイクル論のこの側面は,『大都市の将来』と併読すると理解しやすい。

 ヴァーノンは,輸送費,賃金,外部経済などを産業立地を規定する要因とし,どの要因が強く作用するかによって産業や製品を区分する。これは大都市研究でもプロダクト・サイクル論でも同じだ。しかし,違いもある。
 大都市圏研究ではこれらによって,同時点での産業の類型をとらえていた。輸送費が重要な産業,賃金コストが重要な産業,外部経済が重要な産業という具合である。しかし,プロダクト・サイクル論では新製品が成熟化し,標準化していくという時間進行によって,立地優位性が移り変わっていくととらえているのだ。
 これはプロダクト・サイクル論と雁行形態論の違いにもかかわる。両者は,小島清が自ら整理したように,先進国から見たサイクルと途上国から見たサイクルとして対比されることが多い。しかしもう一つ,「何が変わることでサイクルが進むのか」が異なる。プロダクト・サイクルは製品や工程の設計が標準化することによってサイクルが進む(ドミナント・デザイン論の萌芽)。つまり製品・工程が変わる。一方雁行形態論は,各国で資本と知識の蓄積が進むことによって要素賦存の相対関係が変わることによって雁行が国際的に伝播する。つまり,国の要素賦存が変わるのだ。これが両理論の違いである。

 ここまでで確認したいのは,ヴァーノンのプロダクトサイクル論とは何よりも立地論,あるいは立地優位性の理論だということだ。そこから直接的に導けるのは,単純な要素賦存説とは違うものの,ある種の比較優位論であり,したがって貿易論である。直接投資論ではない。プロダクトサイクル論を何よりも直接投資論と捉えるのは適切ではないのだ。

 写真の板書は1枚目がプロダクトサイクル論。2枚目が雁行形態論。3枚目は,論文をカフェでばかり読んでいることと,7回読んでも覚えない証拠。





2019年12月21日土曜日

「『政府のお金』など存在しない。あるのは納税者のお金だけだ」というマーガレット・サッチャーの主張は正しかったか?:MMTの貨幣論で考察する

 2019年12月21日付の『日本経済新聞』は2020年度当初予算案に寄せて、かつてマーガレット・サッチャーが「『政府のお金』など存在しない。あるのは納税者のお金だけだ」と発言したことを紹介している。確かに検索してみると1983年の保守党大会で"There is no such thing as public money. There is only taxpayer's money"と演説している動画が見つかる。

 この演説は二つの意味を持つ可能性があるが、いずれにしても間違っている。

 もしサッチャーが、「政府のお金」に誰が権利を持つかという意味で言っているのであればどうか。権利を持つ主体は納税者だけではない。国民とも呼ばれるべきである。自国に住む外国人を含むという意味で、納税者という言い方も間違ってはいない。しかし、低所得であるなど様々な理由で課税を免除されている自国民にも権利はあるし、納税の多寡によって国民の主権者としての資格が変わるわけでもない。

 では、彼女が「政府のお金はすべて納税者が納税したものである」という意味で言っているとすればどうか。これは正しいと思う人も多いかもしれない。政府は納税額の範囲内で支出すべきだ、財政赤字を出すべきでないという考えも世の中には強いからだ。だが、私はこれも間違いだと考える。

 政府は万能ではなく、お金を生み出せないという人がいるかもしれない。もしも国の「富」についてであれば、それはだいたい正しい。国の富は、そこに住む国民や、国内に住む外国人、それと海外に住む国民の生み出したものである。政府機関が生み出す富もあるが、そこでも国民や住民が働いていることには変わりはない。

 しかし「お金」は違う。狭義の政府は、法制度がそれを許すならば政府紙幣・貨幣によってお金を創造できるし、広義の政府に属する中央銀行は中央銀行券や中央銀行当座預金を作り出すことができる。なぜ創造できるかというと、これらは債務証書だからである。債務を負うことによって債務証書を発行できるのは何の不思議もない。債務証書だから、納税者が納税した金額と1対1対応することなく、作り出すことができるのだ。

 それは中央銀行については認められるが、政府については認められないという人もいるかもしれない。しかし、認めるべきなのだ。具体的に見よう。

 政府が国債を発行して債務を負う場合を考える。政府は調達した資金を支出するので、それによって通貨量(マネーストック)は増える。そして、国債で資金を調達しても通貨量は減らない。中央銀行が引き受ければもちろん減らないし、銀行が引き受けてさえも減らない。それはおかしいという人も多いだろうから、さらに具体的に説明しよう。

 国債引き受けの代金は、銀行が中央銀行に持つ当座預金から政府預金への振り替えによって支払われる。これで銀行全体が持つ中央銀行当座預金は減少する。ところが一方で政府支出によって通貨量が増えるので、これが受け取った会社の銀行口座の残高増になる限り、銀行預金が全体として増大し、中央銀行当座預金も増える。よって、タイムラグやテクニカルな要因による変動を除けば、中央銀行当座預金はプラスマイナスゼロになる。

 銀行の預金通貨は増え、中央銀行当座預金はプラスマイナスゼロだから、通貨量は明らかに増えている。納税者の納税額が増えなくても、政府が借金をして支出すると、通貨は創造されるのである。

 しかし、政府の借金は将来返済されねばならないのではないか、それで通貨が増大したと言えるのか、という人がいるだろう。それは場合による。政府債務が増大し続けることで問題が生じるのは、デフォルトを起こす場合、デフォルトの懸念による信用不安を起こす場合、そして通貨量の増大が需要超過・供給不足やボトルネック、独占・寡占などによりインフレを起こす場合である。このような場合、政府は債務を削減しなければならない。逆に言えば、これらを引き起こさない限り、政府債務が存在することは問題はないのである。

 問題のない範囲で政府債務が拡大する場合には、債務が増大する分だけお金が創造されて、通貨量は増大する。だから「政府のお金というものは存在する」。政府は万能ではない。富は人民が作り出さねばならない。しかし、お金については政府が創造できるのである。

 もちろん、問題ない形で政府債務を増大させることは容易ではない。政府には完全雇用やセーフティネットの供給や国防や警察という使命を果たすために支出を行う必要がある。だから、政府支出は膨張しがちになる。その際に、デフォルトを起こさないためには債務を自国通貨建てに限ることが必要である(自国通貨建てならばいくらでも借り換えができてデフォルトを心配せずに済むからだ)。インフレを起こさないためには財やサービスの高い生産性での供給を促進することが必要である。ボトルネックや独占・寡占の弊害は取り除かねばならない。だから産業政策や競争政策が必要だ。政府の使命は容易ではない。

 しかし、財政均衡を保ったり、生まれた債務を極小化しようとすることそれ自体は、政府の使命ではない。政府の努力は、財やサービスの生産促進や独占禁止や完全雇用の実現に対して傾けられるべきであり、それによって国が豊かになり、生活が安定し、公平さが守られる。その際の注意は、それらの実現の過程でインフレを起こさないようにすることに対して払われるべきである。

 インフレが起きそうな時や、外国からの借り入れがデフォルトしそうなときは債務が削減されねばならない。しかし、無条件に、いつでもどこでも債務を削減しようとしたり、債務の総額が大きいというそれだけの理由でこれを敵視したりすることは、まったく無意味なのである。

 以上はMMT(現代貨幣理論)に沿った解説であるが、特定の価値観に依拠したものではなく、むしろ金融実務に沿ったものであることをご理解いただけると幸いである。

2019年12月20日金曜日

グローバリゼーションの失速、景気の減速、地政学的リスクの増大、気候変動:多層的ガバナンスの構築は間に合うのか

 昨日12月19日の『日本経済新聞』に掲載されたイアン・ブレマー「『未曽有の難局』に備えよ」。ブレマー氏の言うことを圧縮すれば以下のようになる。

・「グローバル化の加速で「見捨てられている」と感じている人は数多く存在する」。この「認識は特に先進国の中産階級に浸透している。
・この認識のため「グローバル化の勢いがほぼ1世紀ぶりに失速し始めた」。
・「そのグローバル化の失速が最悪のタイミングで到来している」。
・「世界景気は減速しつつある」。景気は循環するものだが、「今後はこれまでのように持ち直す保証はない。というのも、新たに二つの要素が重要になっているからだ」。
・「一つ目は地政学的な要素だ」。地政学上の動きにも循環があり、「『後退』期には、国際機関の有効性や国際協調の機運が衰え、国際紛争や対立が増える」。
・「二つ目は気候変動の要素だ」。
・「現代社会は未曽有の状況に陥っている。グローバル化、地政学、そして経済が同時にマイナスに転じつつある一方で、世界の状況は過酷さを増しつつある」。

 ブレマーの思想には詳しくないので、さしあたりこの記事だけを出発点に考えよう。確かに、相当警戒した方がよい情勢だと思う。では、解決の方向はどこにあるのだろうか。
 国際協調とグローバル・ガバナンスだけでは、これを乗り切ることはできないだろう。学部ゼミで読み終えたダニ・ロドリック『貿易戦争の政治経済学』などを踏まえると、もう少し修正が必要かもしれない。
 気候変動はグローバル・ガバナンスでなければ解決できないが、通商紛争はナショナルなガバナンスを回復させながら国際的調整を行わないと激化するばかりだ。例えば、WTOを機能麻痺から救うことはどうしても必要である反面、社会的セーフティ・ネットはそれぞれの国で構築されねばないからだ。両者はどうしても矛盾する。
 矛盾のないグローバルな制度もなければ、国際紛争を激化させるばかりのナショナリズムでも解決しない。中間にあるはずのリージョナリズム(国より大きい方。EUとかASEANとか)も必要ではあるが両者にとって代わるほどではない。だから、両者の対立が通商紛争に現れる際の調整様式を、当面はプラグマチックに対応しながら、形を整えていくしかないように思う。
 難局に対応するために、多層的なガバナンスを模索する時期に入ったというべきなのかもしれない。しかし、特定の民族や社会集団を非難するキャンペーンで支持を獲得し、権力を持ったら仲間内に利権を配るような政治が、解決への努力を妨げているのが現実の動きだ。まにあうのだろうか。

「『未曽有の難局』に備えよ  イアン・ブレマー氏 米ユーラシア・グループ社長」『日本経済新聞』2019年12月19日。

2019年12月11日水曜日

パートタイマーだけにボーナスや通勤手当を支給しないことは2020年4月1日から違法となる:労働運動も経営者もただちに行動すべき

「働き方改革」関連法の賃金関連部分が来年4月1日より施行されるのだが,世の中で全然話題になっていない(中小企業については2021年4月1日から)。大丈夫なのか。不十分で問題も含んだ法律であったが,それでもパートタイマー・有期雇用労働者,派遣労働者にとっては,処遇改善のまたとない機会である。逆に経営者にとっては,必要な財源を計算して確保し,就業規則を改正しなければ違法状態に陥る。いずれの立場からみても,行動を起こすべきは今であり,何もしなければたいへんな混乱状態を招くだろう。

 ここでは話を分かりやすくするため,パートタイマー・有期雇用労働者について,解釈の余地が小さく,ほぼ確実に違法あつかいされることを四つあげる。労働運動は,これを経営者に強く主張してよい。法的にまちがいなく正当だからだ。経営者は,これらを4月1日にはなくせるように人事制度を改革しなければならない。

*正規労働者にはその貢献にかかわらず常に何らかのボーナスを支給しているのに,パートタイマー・有期雇用の労働者にだけ支給しないのは違法である。パートタイマー・有期雇用労働者にも,貢献に応じて何らかの支給をしなければならない。
*正規労働者とパートタイマー・有期雇用労働者の間で,通勤手当と出張旅費について差をつけるのは違法である。
*正規労働者とパートタイマー・有期雇用の労働者との間に福利厚生の利用条件で差をつけるのは違法である。
*正規労働者とパートタイマー・有期雇用の労働者との間で,慶弔休暇,健康診断のための勤務免除および有給の保証について差をつけるのは違法である。

 もちろん,働き方改革の事項は他にもいろいろあり,また派遣労働者に独自の事項もある。しかし,派遣労働者については運用が複雑で,このように短く目玉をまとめることが難しいため,ここではパートタイマー・有期雇用の問題に絞ったことをお断りしておく。

 なお,これが私の勝手な法解釈でない証拠として,厚労省「同一労働同一賃金ガイドライン」を参照されたい。

厚生労働省「同一労働同一賃金ガイドライン」のページ
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000190591.html
ガイドラインへの直リンク
https://www.mhlw.go.jp/content/11650000/000469932.pdf

2021年3月7日追記。
 2020年10月に大阪医科薬科大学事件について最高裁は,働き方改革関連法(改正短時間・有期雇用労働法)ではなく旧労働契約法に依拠した判決を下した。そこでは,同大学の条件に即してであるが,アルバイト職員に対してボーナスを支給しないことが不合理とまでは言えないという判断が下された。私は,この判決は,パートタイマー・有期雇用労働者にも貢献に応じてボーナスを支給すべきという立法趣旨に反するものだと考えるが,少なくとも,非正規労働者にボーナスを支給しないことが,当然には違法とされないことになってしまった。

論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...