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2020年10月10日土曜日

ジョブ型は「解雇自由」ではない。職務の存続と正常な遂行を雇用存続の根拠としている

 濱口桂一郎氏が怒りつつ呆れつつ書かれているように,「ジョブ型は解雇自由」というのは間違いである。しかし,日本でジョブ型について説明していくとそのように理解されやすいことも事実で,私の一昨年度と昨年度の「日本経済」講義でも学生にもその傾向があった。

 これを防ぐには,雇用存続の根拠をメンバーシップ型とジョブ型とでニュートラルに対比して説明し,ジョブ型には雇用存続根拠が強い面もあることをはっきりと言わねばならない。今年度の講義ではその点を補強したところ,誤解はほぼなくなった。

 メンバーシップ型の雇用存続の根拠とは,当該労働者が「会社にとって重要な一員と認められている」ことであり,ジョブ型の場合は「現に就いている職務が存続し,それを職務記述書の求める水準で遂行できていること」である。

 経営再編で職務自体が消滅する時に,その職に就いていた労働者を解雇することは,メンバーシップ型雇用の方が不当とされやすく,ジョブ型雇用の方が正当化されやすい。しかし,現存する職務はこれからも存続し,正常にそれを遂行している労働者を,会社にとって都合が悪い,例えば正常に仕事はしているが長期勤続で賃金が高いという理由で解雇し,別の人にとりかえるのは,メンバーシップ型雇用の方が正当化されやすく,ジョブ型雇用の方が不当となりやすいのである。

 だからジョブ型雇用=解雇自由というのはまちがいである。上司が説明なく「こいつは解雇。以上」というのは,ジョブ型においても不当なのである。 

 にもかかわらず,ジョブ型が解雇自由だと日本人が思い込みやすいのは,一つにはジョブ型の原理とアメリカという解雇自由な個別例を混同しており,またジョブ型の原理と日本の非正規への差別的待遇を混同しているからだろう。また,ジョブ型の方が解雇しやすそう,されやすそうに見えるのは,メンバーシップ型において正社員を解雇すること=仲間とされている人を切ることへの倫理的うしろめたさが日本社会にまだ残っているからでもある。ジョブ型になればその後ろめたさがなくなる。そこだけを捉えて,古い規範がなくなったら会社がやりたい放題になるのではないかと,それを望む人も,批判する人も予感するのだろう。確かに制度の移行期には力関係が物事を支配しやすい。しかし,古い制度・慣行を壊すときに新しいものを打ち立てようとせず,想定していては,経営側からも労働側からもよい改革はできないだろう。そのような想像力の貧困さこそが,克服すべき問題ではないか。

「ジョブ型は解雇自由だと、批判したい人が宣伝してしまっている件について」hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳),2020年9月28日。



税金で活動する学術団体だからこそ,時々の政府が介入してはならない。自由で民主的な国でありたいならば

 税金で活動しているから首相に人事権があるのが当然であるかのように言う人がいるが,学術団体にその論理を適用してはならない。国立大学や国立の研究機関もみな政府の思うがままに人事をしろということになる。そういう話になるから,学問の自由への脅威だと言っているのだ。政府を批判すると弾圧される国の仲間入りをしたいのか。税金を使ってでも,時々の政府に対する学問的見地からの批判や提言を保証するのが自由で民主的な国ではないのか。

2020年10月6日火曜日

「誰もがいつでも,どこでも,安全,確実に,そして,安価に利用できる」トークン型CBDCの存在意義とその限界:木村武氏の論稿に寄せて

 日銀から日本生命に転職して話題になった木村武氏の中央銀行デジタル通貨(CBDC)論。さすがに日銀が要となっている債務決済のしくみを踏まえて立論されている。「鍵となるのは,デジタル社会における中銀マネーと民間マネーの交換可能性の確保であり,そのことは,決済システムの効率性や安全性の改善を責務とする中央銀行の本流といえよう」という論点は重要だ。民間マネーと中央銀行マネーの二階建て構造を踏まえた上で,著者が「誰もがいつでも,どこでも,安全,確実に,そして、安価に利用できる」デジタル支払い手段としてCBDCに存在意義があるとするのも同意できる。

 さて,著者の見解を私の責任で延長すると,端的に次のような事態が想定できると思う。

 「誰もがいつでも,どこでも,安全,確実に,そして,安価に利用できる」トークン型CBDCがもし登場すれば,民間電子マネーは小口支払い手段としては存在意義と競争力を失うだろう。なにしろ,どの店でもCBDCで支払えるし,個人間送金もスマホ一つでできるのだから。つまり,もともと現金払いだった小口支払は,すべてCBDC払いに置き換えることができる。 

 民間電子マネーは単なるキャッシュレス支払いだけではユーザーを集められなくなり,付加的なサービスの効用によって集客しなければならなくなるだろう。

 CBDCに残される最大の問題は,災害により情報インフラが損壊した場合に使用困難に陥るリスクだ。そういう時には,従来と同様,物理的現金以外に頼るものがなくなる。日本における自然災害の深刻さを考えると,預金やCBDCを物理的現金に円滑に交換できる可能性を確保しておかねばならない。それが銀行の支店という形であり続けるかどうかは別として,そのような場所や人手を確保し続けねばならない。この制約が,CBDCで紙の現金を置き換える限度を規定すると私は考える。

木村武「中央銀行デジタル通貨の役割を根っこから考える」ニッセイ基礎研究所,2020年9月28日。

<関連投稿>

「中央銀行デジタル通貨:口座型はまったく不合理であり,トークン型に絞って検討すべき」2019年12月4日。

「フィンテック企業は,金融機関と日本銀行なくしては債務を決済できない:だからこそ手数料引き下げに意味がある」2019年12月7日。

「中央銀行デジタル通貨(CBDC)再論:口座型は個人預金の準国営化という奇策であり,トークン型が合理的」2020年7月15日。




2020年10月4日日曜日

黒川伊織『戦争・革命の東アジアと日本のコミュニスト 1920-1970年』有志舎,2020年を読んで

  私の日本社会主義運動史への関心の一つは,日本共産党の組織と運動はいつ,どのようにして国際共産主義運動の一部から分離・独立したかという事にある(もうひとつは,日本資本主義分析における小経営への視座の変遷だ)。しかし,関心はあっても専門的な研究を行う余裕がなく,本や論文が目につけば読むくらいが限界だ。本書は,この関心に正面から応えてくれる労作だった。「帝国に抗する社会運動」という関心から,日本の共産主義運動と日本共産党の歴史を,中国,朝鮮半島,日本のコミュニスト,社会運動家,独立運動家の交流を軸として描いた研究だ。著者によれば新たな史実の発掘に努めたのではなく,すでに明らかな事実を統合して歴史の新たな語りを提示したということであるが,こちらの不勉強ゆえに初めて知ることも多かった。

 本書は,共産党のある組織論上の論点をめぐって展開されている。コミンテルン時代から1950年半ばまで,在外コミュニストは居住国の共産党に加入するという「一国一党の原則」がとられており,したがって在日朝鮮人や在日中国人が多数日本共産党に加入していたこと,逆に日本人が日本以外の共産党に加入していたことだ。この原則は米ソの平和共存論への転換,第三世界台頭の中での内政不干渉原則の浮上を背景に解消され,日本共産党は日本人のみによって構成される政党となり,議会進出を中心に合法活動による政権獲得をめざす路線に転換していく。

 これまで,コミンテルンの日本共産党への指導と援助,あるいはその名の下での支配介入のことはまあまあ常識程度に知ってはいたが,朝鮮人や中国人のの日本共産党への加入のことは,本当に形式的にしか知らなかった。『日本共産党の60年』で,戦後直後の中央委員会の構成に金天海という名前を見つけ,はてこれは誰だろうと思ったことが最初だったと思う。その後,コミンテルン時代から1950年半ばまで,在外コミュニストは居住国の共産党に加入するという「一国一党の原則」により,在日朝鮮人が多数日本共産党に加入していたこと,府中刑務所から志賀義雄,徳田球一,金天海を含む政治犯が釈放されたときに出迎えに来ていたのがほとんど在日朝鮮人であったことを知り,宮崎学『不逞者』で金の足跡を多少たどることができた。

 しかし,本書により,そもそも結成時点から,日本共産党は東アジアの社会運動家たちのネットワークの中にあり,その中で活動家たちの交流もあれば,日本帝国主義の朝鮮半島支配や在日朝鮮人の労働問題への運動家たちの関わりや関心・無関心も問われていたことを知った。例えば,大韓民国臨時政府と日本の共産主義運動の人的交流などは,これまで全く知らないことだった。これらは,今この瞬間を含む後の時代になって見れば,「光」とされることも「影」とも,果ては「闇」とされることもあるだろう。しかし,記録されるべきであり,書き落としてはならないことであると思う。その意味で,本書は大変貴重なものだと思う。

 本書を読んで私がうまく整理できなかったのは,著者が「東アジア/日本のコミュニストの活動は国際共産主義の路線に強く規定されてきた」(295頁)ということと,中野重治の「雨の降る品川駅」を冒頭から末尾に至るまで繰り返し参照して描く,活動家たちの個人としての交流の関係だ。明らかに著者は,政治の因果関係を規定する要因としての前者を重視しているが,後者を前者に解消していない。著者は,生活と運動の現場での国境を越えた交流と連帯,葛藤には,それ自体に意味があるものとして歴史を語ろうとしている。あえて単純化した言い方をすれば,ソ連共産党は東アジアの活動家を政治の駒のように扱おうとしたが,活動家たちは駒ではなく自律的に動く人間だったのだ。しかし,そうであるならば,この二側面を論理的に区別する視点が欲しい。

 著者は,国際共産主義運動と称した運動の相当部分が,一党制により政権を握った共産党が他国の社会運動に支配介入を行なうものであったことを認識している。しかし,その支配介入を伴った国際的な運動の中で,活動家同士の交流は培われ,現実への新たな視座と創造的な運動が生まれていく。逆に,草の根から始まった交流はモスクワや北京との連絡が生じるにつれて,ソ連共産党や中国共産党の路線がインプットされる回路に変質させられる。国際共産主義運動と呼ばれたものと,国境を越えた活動家の交流はイコールではなく,両者の間には相互に促進し,また対立する関係があったことを著者は描いている。そうであればこそ,読後感としてどうしても残る疑問がある。現実においてこの二側面が切り離せなかったのか,そうではなかったのか,あるいはいつまでは切り離しようがなく,どこで新たな選択肢が生まれたのか,実際にどのような試みが行われたのかということだ。しかし,これは本書の達成があればこそ生じる疑問であり,著者が書き通してくれた通史の土台に立って,読者が考えるべきことなのだろう。

黒川伊織『戦争・革命の東アジアと日本のコミュニスト 1920-1970年』有志舎,2020年。




2020年10月2日金曜日

「基づいて」は強い拘束性を示すとさんざん政府に言われたのだが:学術会議会員任命拒否問題

 「基いて」は「強い拘束性」があると文部科学省から言われた覚えがあるものとして,一言いいたい。

 学術会議の会員任命拒否の件。すでに法律の専門家が投稿されていることと思うが,法律や日本の国家機関の規則では「の指名に基づいて,任命する」というときに,その指名と違うことを勝手にして良いという解釈はあるのか。

 日本学術会議法第七条第2項「会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」に依る限り,学術会議の推薦がある者を任命しないことや,推薦がない者を任命することは法的に問題になるのではないか。また,仮に推薦されたものを任命しなくてよいことがあるにしても,それはよほどの事態であるから,いったい何を根拠にどういう理由でそうしているのか説明しなければならないはずだ。菅内閣は本日まで,それを行っていない。

 これ以上の詳細は法律家に任せるが,どうしても一言いいたかったのは,身に覚えのある話だからだ。2014年に学校教育法と国立大学法人法が改正された時に,国立大学の内部規則から「教授会の議に基づいて」という表現をなくせと文部科学省から指導が入った。その時の理屈として,「法律上「議に基づいて」とある場合には、強い拘束性を有するものと解されますので、「議を経て」以上に慎重な考慮が必要であると考えます」と言われたのだ(「学校教育法及び国立大学法人法等の改正に関するQ&A」2014年10月8日)。やむをえず当研究科でも規則を色々改正した。政府が,ある時は「議に基づいて」は強い拘束性を有するといって国立大学法人の学内規則にまで介入しながら,またある時は法律に「指名に基づいて」とあっても無視するというのでは,まるで一貫性がないと私には思える。


「政府が責任をもって任命する」とは?:学術会議会員任命拒否問題

 政府が責任をもって任命するというのは,政府が責任をもって学問の自主性を守るということであり,政府に都合のいい人間だけ公職に就け,反対者を排除してよいという意味ではない。

(引用)「加藤氏は見送りの理由は明らかにしなかった。その上で「首相の下の行政機関である学術会議において、政府側が責任を持って(人事を)行うのは当然だ」と述べ、学問の自由の侵害には当たらないとの認識を示した。」。

「学術会議推薦者6人任命せず 政府、現制度下で初」『日本経済新聞』2020年10月1日。



2020年9月25日金曜日

「専門家」と「専門性」と素人の意義について:内田樹氏と岩田健太郎氏の対談に思う

 内田樹・岩田健太郎「『素人がコロナを語ると専門家が怒る』という日本は明らかにおかしい」MSNニュース,2020年9月23日を読んで思ったこと。あらかじめ断っておくが,両氏を褒め称えたいのでも貶したいのでもないので,それだけを好む方はお読みにならない方がいい。

 私は「専門家」支配は一面的で問題だが,「専門性」無視もだめだと私は思う。素人考えは誤っていることも多いのでその通りにする必要はないが,素人が主張する状況を無視することも不適当だと思う。

 「専門性」は必要であって,それがないと何事も実効性ある対策はできないし,客観的な評価に耐えられない。イノベーションが狭っくるしい短期的な評価「主義」になじまないのは確かだが,多角的にであれ「評価」自体はされねばならないのであって,コロナやコロナ対策についての評価を「放っておいて」何かが起こるともよくなるとも思えない(例えば,PCR検査をめぐる議論には,適切な評価と対応が必要だ)。この点で,岩田氏と内田氏が専門家批判に集中して専門性の尊重を言わないのは偏っていると思う。

 ただし「専門家」以外を頭から排除してはならない。専門家は,絶えず専門性を発揮することにおいて尊重されねばならないのであって,その肩書によって尊重されるべきなのではない。また,専門家の行動にも特有の盲点がある。専門の業界やそれと結びついた政府の政策に議論のフレームをはめられてしまい,同じフォーマットで言説と数字しか流さなくなって変化する社会状況に対応しなくなること,科学性を尊重するあまり,完全に証明されていないことについて,求められている判断を下さないことだ(例えば,2011年4月に,「原発事故後も××キロ離れた○○市に1か月住んでいたら深刻な健康被害が出るかどうか」という多くの人が気にしている問題を立てて発言してくれる専門家がいなかった)。この点での専門家の限界,多様な状況に即して専門家以外がリアルな観点と意見を持ちうることについての,両氏の指摘はもっともだと思う。確かに「子どもたちは傘を差して登校する」などのアイディアは,専門家でなくても思いつく可能性があるのだ。

 もう一つ。素人の主張について考えるべきは,それが正しいかどうか「だけ」ではない。両氏は語っていないが,そこも大事だ。間違っていることを含め,少なくない人があることを言わずにいられない(例えば,大量のPCR検査を求めずにいられない)心境と,その人々をそのような心境にさせる社会状況を重視すべきだ。政策担当者などの実践家は,専門性を欠く素人が主張することをそのまま実行する必要はない。しかし,おおぜいの素人が主張せざるを得ない状況には,必ず解決すべき問題が含まれているのであり,実践家はそこに適切に対応しなければならない。


信用貨幣は商品経済から説明されるべきか,国家から説明されるべきか:マルクス派とMMT

 「『MMT』はどうして多くの経済学者に嫌われるのか 「政府」の存在を大前提とする理論の革新性」東洋経済ONLINE,2024年3月25日。 https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/daa72c2f544a4ff93a2bf502fcd87...