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2020年5月31日日曜日

「投資が先に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」ことを可能にする制度的基礎について

 マクロ的な設備投資と在庫投資を「投資」とした場合,「投資が先に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」。なぜそのようなことが可能なのだろうか。
 I=Sは誰もが認める恒等式である。もう少し進むと,ケインジアンは「投資が独立に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」と理解する。この時点で拒絶する人もいるかもしれないが,認める学者も少なくない。しかし,これを理論構築のための仮想と考えるか,実際の因果関係と見るかは,わかれると思う。
 実際の因果関係と見ると,当然,次のようにも言えてしまう。「事前に貯蓄があるから投資できるわけではない」ことになる。中間に利子率を入れると,「貯蓄が豊かにあれば(利子率が下がって)投資を促進するという関係は存在しない」ということになる。さらに,社会全体として「事前に貯蓄がなくても投資できる」ことになる。こうなると拒絶する学者,少なくとも現実をそのように説明しない学者も多いだろう。例えば,「日本の高度成長期には,豊かな個人貯蓄が企業の投資を支えた」という人は,事実上,投資先行決定を否定しているのである。
 しかし私は,投資の先行決定は単なる仮想ではなく,実際の因果関係だと理解している。それは,一定の制度的基礎と結び付ければ理解できる。
 その制度的基礎とは信用貨幣と銀行である。投資を,それまでに存在せず,あらたに創造された通貨で行うならば,ミクロ的には事前の預金,社会的には事前の貯蓄にまったく左右されずに投資が可能になる。つまり,マネーストックに含まれる(中央銀行や市中銀行の手元に眠っていない)発行中央銀行券か,市中銀行預金,(それが存在する国では市中銀行券)が,「必要に応じ,信用供与の際にゼロから創造される」ならば,企業が銀行から借り入れることによって投資を先行決定することができる。
 しかし,実務家はともかく,経済学者の過半数はこのように銀行を理解することに同意していない。多くの経済学者は(主流派であれマルクス派であれ),銀行を「事前に集めた預金を貸し出す」というモデルで理解している。信用創造を認める場合でも,まず本源的預金があって,その何割かを貸し付け,するとその一部がまた預金となり,またその何割かを貸し付ける,と理解する。
 だが,そこがちがう。私個人が違うと思うだけでなく,学説的には信用貨幣論,内生的貨幣供給論,銀行の「貸し付け先行説」によれば,違う風に通貨と銀行を理解できる。銀行は,もともと預金がなくても,貸し付けることによって,貸付先企業の預金を創造することができる。この行為により,預金通貨は増加する。もちろん,預金の引き出しに備えた手元流動性がなければ貸せないが,銀行が手元にもっている中央銀行券は,中央銀行当座預金をおろすことで入手したものであり,民間から集めた預金に由来するのではない。だから,銀行の貸付は,事前に預金がなくても実行できるのであって,むしろ貸し付けによって預金が創造されるのである。
 これは,企業が手形を発行して物を買うのと同じであり,何も神秘的なことではない。銀行は預金という手形(自己宛て債務)を発行して,貸し付けるのである。債務を返済せよと言われたら(=預金をおろしたいと言われたら)中央銀行券で渡しているのだ(※)。
 このように,通貨を信用貨幣論で理解し,信用貨幣供給を内生的貨幣供給論で理解し,銀行を「貸し付け先行説」で理解すれば,事前に貯蓄がなくても企業への貸し付けが行われ,企業が投資することが可能だとわかる。「投資が先に決定されて,それと同額の貯蓄が結果として発生する」というマクロモデルを,単なる仮想でなく現実の因果関係であると了解できるのだ。
 こうして考えると,常識的な観点もいくつか怪しくなってくる。例えば,「日本の高成長期の法人企業の投資超過=資金不足を家計の貯蓄が支えた」というのは間違いで,「企業が盛んに投資を行ったから家計に貯蓄が生まれた」ということになる。発達した資本主義国では,国内の貯蓄不足で投資が困難になるという事はないのである。
 ただ,対外関係が入ってくれば話は違ってくる。とくに発展途上国で国内の金融機構がぜい弱で信用創造が大規模にできない場合,投資の際に外貨による輸入が必要であったり,国内産業がぜい弱で投資が輸入の急増を招いてしまう場合などは,国内の信用創造だけによって投資を拡大することができない。海外からの借り入れや直接投資や援助によってこの制約を乗り越えていくことになる。ここに発展途上国の課題がある。ただ,このような状況は,通常は「国内貯蓄がないから海外からの借り入れもしくは援助が必要だ」と言われるが,これは不正確であろう。貯蓄がないからではなく,金融機構と国内産業がぜい弱だからというべきではないか。

※それでは中央銀行当座預金や中央銀行券という債務について,中央銀行に「返済せよ」とせまったらどうなるかというと,当座預金は中央銀行券で支払われ,中央銀行券は中央銀行券で払われるというトートロジーになるだけである。債務は,より信用度の高い債務で支払われる。管理通貨制の国の国内には,債務でない通貨はない。だから,最高の債務は何によっても支払われない。「債務証書でない,ちゃんとした本位貨幣で返済しろ」ということ自体が不可能なのが管理通貨制である。

2021年5月15日,最後の段落を改訂。

2020年5月24日日曜日

大企業を救済するために無差別資本注入を行うことに反対する

 政府系金融機関による劣後ローンや優先株で大企業を救済する案について,私は基本的な観点を述べておきたい。
 経営者に責任のない災害による経営危機であるから,劣後ローンでの支援まではありうると思う。また,公共交通機関である航空会社など特定分野の企業については,オペレーション維持のための救済はありうるだろう。ただし,程度の差があれ公的規制が入るのは当然だ。
 一方,大企業への無差別資本注入は賛成できない。資本注入とは,出資先企業の存続にコミットすることだからだ。
 産業や企業は永遠のものではない。このコロナ危機を経て,産業構造は当然に変化するだろうし,変化すべきとさえ言える。インフラ維持と弱者救済はするとしても,どのような大企業が生き残るかは,市場で決めねばならない。大事なことは,将来の新産業構造を担う企業を興隆させることであり,現存する大企業をまるごと守ることではない。両者は異なるものだ。近い将来のビジネスの担い手は,まだ創業していないかもしれず,今は中小零細企業かもしれない。それらが伸びる可能性を摘まないためには,既存大企業に資本注入して政府がその存続にコミットしたりすべきではない。優先株として資本注入しながら何も発言しない無責任経営はもっと悪い。日銀のETF購入と類似の誤りである。
 労働者,自営業主,市民は人間であるからその存在そのものが守られねばならない。自営原理が浸透している日本の中小零細企業にも救済の余地がある。しかし,大企業は人ではなく,人に奉仕すべき組織である。守られるべきは既存企業ではなく,明日果たされるべき企業の役割だ。守るべきは人間であり,生き延びた人間に選ばれてこそ企業は生きるべきである。

2020年5月23日土曜日

「現金給付、留学生は上位3割限定 文科省、成績で日本人学生と差」は誤報だと思う

 学生への現金給付金について,留学生にだけ厳しい成績要件がついていると報道されている件。文科省の資料を見つけたが,幸いにして誤報だったようだ。

 どういうことかというと,文書には細かく書いてあってわかりにくいのだが,端的に「奨学金の基準を適用する」ということと読める。公的な奨学金は日本人学生と留学生で制度が異なるので,今回の要件も異なって来ざるを得ず,別々に書いているのだろう。日本人学生は1)高等教育の修学支援新制度あるいは2)第一種奨学金(無利子奨学金)あるいは4)民間の支援制度を利用しているか利用を予定している者で,留学生は「学修奨励費」(「学習奨励費」の誤字ではないか)と同様の基準を満たす人,ということだ。どちらにも成績と収入の基準はあるので,双方に奨学金の基準を使う分には,差別ということはないだろう。

 日本人学生については卒業まで奨学生でいられるので「奨学金を利用している」などと書けばすむところ,留学生については学習奨励費が1年きりのものであってそういう表現では書けないので,学習奨励費の基準を個々に列挙した。そこを,留学生にだけ成績基準を課していると記者が読んでしまったのだろう。

 もちろん,制度の違いによって難易度の差はあり得る(私の見るところ,どちらが有利とは一概に言えないと思う)。しかし,差別というものではない。ただ,この「学生支援緊急給付金」は学生全員に支給されるのではなく,もともとかなりの経済的困難を抱えている,成績一定以上である学生を対象にするものであることも確認できた。これでは,学生全般の困窮を救えない。また例によって事務的にはかなり煩雑な操作が必要とされることが予想される。

 学生全般を救済する措置は,この給付金ではうまくいきそうにないので,やはり授業料負担軽減措置でやってもらうしかないだろう。

「学びの継続」のための『学生支援緊急給付金』 ~ 学びの継続給付金 ~

以下は誤報と思われる。
「現金給付、留学生は上位3割限定 文科省、成績で日本人学生と差」共同(Yahoo!Japanニュース),2020年5月20日。


2020年5月20日水曜日

厳格な感染対策→死亡者や感染者の抑制,緩い感染対策→死亡者や感染者の増加という単純な話ではないことについて

ちょっと頭を整理しておきたいことがある。新型コロナウイルス感染対策について,

政府の厳格な感染対策→死亡者や感染者の抑制
政府の緩い感染対策→死亡者や感染者の増加

と想定して,あれこれの国をほめたたえたりくさしたりする議論は視野が狭いのではないか。

もちろん,上記のような因果関係はある。けれど,それだけではない。いったんはじまった感染対策の優劣にかかわらず,

対策開始前の相対的に深刻な感染状況→……→死亡者や感染者の増加(手遅れだった)
対策開始前の相対的に軽微な感染状況→……→志望者や感染者の抑制(元が軽かったから何とかなった)

という因果関係は当然ありうるだろう。欧米の厳しいロックダウンが効果を発揮するまでに時間がかかったのは,感染の広がりに気づくのが遅かったので,厳しい措置も手遅れだったということがあるのではないか(専門家の意見を聞かないとわからないが,例えば地域を厳しくロックダウンしても家庭や老人介護施設や病院では濃厚接触してしまうので,もともと感染の蔓延がひどいと効果が減殺されてしまったとか)。

そうすると,時系列では,

1)対策開始前の相対的に深刻な感染状況→政府の厳格な(でも開始が遅かった)感染対策→死亡者や感染者の増加
2)対策開始前の相対的に軽微な感染状況→政府の緩い感染対策(でも開始は遅くなかった)→死亡者や感染者の抑制

ということが起こり得る。

また,経済政策ではよくあることだが

政府の緩い感染対策→危機感を覚えた民間の反応→死亡者や感染者の抑制

ということも当然ありうる。この場合,民間の反応は「賢くて的確だった」場合と,「試行錯誤だったが結果オーライだった」ということの両方があり得る。日本については,こうした因果関係はありうると思う。ということは,

3)対策開始前の相対的に軽微な感染状況→政府の緩い感染対策→危機感を覚えた民間の反応→死亡者や感染者の抑制

ということもあり得る。

これまでの欧米が1),日本が2)または3)だったという仮説を立てるくらいは許されるだろう。ちなみにこの思考法だと,台湾が

4)対策開始前の相対的に軽微な感染状況→政府の厳格な感染対策→死亡者や感染者の抑制

になる可能性がある。また,最近の再度の感染の増加を脇に置くと,中国と韓国が

5)対策開始前の相対的に深刻な感染状況→政府の厳格な感染対策→死亡者や感染者の抑制

の可能性がある。

いずれにせよ,仮説としては許されても,証明は科学的に行われねばならない。ただ,この可能性を考慮せずに,

政府の厳格な感染対策→死亡者や感染者の抑制
政府の緩い感染対策→死亡者や感染者の増加

と想定して,あれこれの国をほめたたえたりくさしたりする議論は視野が狭いのではないか。それだけを,強く言っておきたい。

 なお,これからどうなるかはまた別の話であることは言うまでもない。

2020年5月19日火曜日

国家公務員の定年延長法案:「年齢を唯一の理由に給料を下げる」ことの問題

 検察官及び国家公務員全般の定年延長の件。検察官について,個々の検事正の定年を内閣の裁量で延長するのは露骨な利益誘導であって反対だ。しかし,その議論は他の方に任せる。当方の講義内容との関係では,国家公務員の定年延長自体が,実は困難な問題を発生させる。濱口桂一郎氏も指摘されているが,ここで私の言葉で述べる。

 国家公務員法改正案の定年延長規定は,現在の日本社会の制度・慣行に適応したものであり,民間大企業の定年延長と類似したものになっている。つまり,1)定年を段階的に65歳まで引き上げ,2)役職は60歳で終了とし,3)60歳以降は俸給を7割に引き下げるのである。大きな問題は3)だ。

 どこが問題なのかというと,「年齢で給料を決めます」と法律が宣言することになるからだ。このことは,今後の日本経済における高齢者の活躍について,当面はプラスとなっても長い目で見るとブレーキをかけることになる。

 人口減少・高齢社会においては,政権が右であれ左であれ高齢者が条件に応じて,公平な処遇の下で働けるようにする以外にない。しかし,「定年までは年齢とともに賃金がまず上がり,それから下がる。定年以後は非正規」という年功賃金慣行はそれと矛盾する。

 仕事内容が変わって軽めの労働になるなら分かる。役職勇退で役職手当がなくなるのは当たり前だろう。しかし,民間企業では雇用延長や再雇用,定年延長において,従来と類似の仕事をしていても,「雇用延長だから,再雇用だから,定年延長期間だから」という理由で給料を下げることが一般的に行われている。これはメンバーシップ型雇用慣行の「家族を支える稼ぎ手にふさわしい賃金カーブを,組織にとって大切な人に設定する」という考えに即しているからだ。高齢で子どもが就職しており,メンバーシップの弱い人には低い賃金でよいだろうとなるからだ。

 しかし,この想定に合わない人が実際には「稼ぎ手」になるケースが増えているのが日本社会の現実である。その大きな集団の一つが待遇が平均的に低い女性であり,もう一つが高齢者である。高齢者が働いて,自分自身や時には家族を支えねばならないのである。そうした高齢者にとっては,同一労働での賃金切り下げや非正規への切り替えというのは,不当な非正規搾取の制度である。

 この新しい条件に対応するには,高齢者雇用をジョブ型に切り替えて,誰がやっているかに関係のない,職務の価値に即した同一労働同一賃金を設定するしかない。そうしなければ,働いても暮らしていけない高齢者が増えるだろう。

 ところが,まさにそのようなときに,国家公務員法が「60歳を過ぎると,年齢を唯一の理由にして給料は下がる」ことを正当化するのである。これは民間における訴訟での裁判所の判断などにも影響するだろう。古い制度を延長すれば,古い制度を前提とする限り合理性は増す。だが,改革はいっそう困難になる。多少のことでは解決しそうにない。

濱口桂一郎「メンバーシップ型公務員制度をそのままにした弥縫策としての改正案」hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳),2020年5月10日。



アベノミクスの結果:成長率は目標に遠く,内需,とくに消費が停滞しており,積極財政とも言えず,失業率は低下したが賃金は伸びていない

 講義用。ようやく最新数値まで図表化できた。別に難しくはないのだが面倒な作業で,コロナ騒ぎで停滞していた。アベノミクス下の経済成長率(2019年度第3四半期まで)需要項目別成長率(2018年まで),成長寄与度(2018年度まで),雇用・賃金変化(2019年まで)。
*目標に遠い成長率。
*輸出依存。
*設備投資もさほど伸びていないが,消費はもっと停滞している。
*公的需要は2013年度以外は伸びてない。アベノミクスは積極財政ではない。
*失業率は低下したが賃金が上がらない。

 など,よく言われる特徴がはっきりと出る。この状態からコロナ危機に突入する。






PCR検査拡大をめぐる論点

PCR検査拡大をめぐる論点。ようやく頭を整理できてきたので箇条書き的なメモにする。

【目前の問題】
*一部地域では,PCR検査を増やさないと院内感染が防げず,医療体制が危うい状況が生じている。
*多方面の業務を行っている保健所がパンクしているので,保健所をバイパスした検査ルートを応急措置でも作らねばならない。
*その予算を国がつけるべき。補正で全くつけていないのは問題だ。

【次の波に備える問題】
*感染者がある所まで減ったら,1)アップグレードされたクラスター対策と2)市中感染が広がっても耐えられる検査体制を構築しなければならない。
*クラスター対策のアップグレードのためにはICTの活用,それを可能にするリーダーシップ,障壁があれば規制改革が必要。しかし,それだけでない。
*FETP(実地疫学専門家養成コース)を拡充してクラスター対策を指揮できる専門家を増やさねばならない。そうしないと,クラスターが全国で発生した場合に手が回らない。
*保健所の人員削減を中止し,逆に人員・検査体制を拡充する。
*保健所に多方面の業務を押し付ける体制をあらためる。健康相談と帰国者・接触者外来への取り次ぎ,PCR検査,クラスター対策をすべてやらせるからパンクするし,検査を拡大させるモチベーションをそいでしまう。他組織との分担,外注の円滑化を進める。検査を拡大させたくないというモチベーションを保健所が持たないように,組織・業務・報酬を設計する。
*PCR検査の基準を「医師が必要と認めたらすべて」にし,その際「帰国者・接触者外来の医師」だけでなく「かかりつけ医が必要と認めたらすべて」まで拡充する。かかりつけ医が必要と認めた場合は,保健所を通さず自動的に検査に入るように手順を組み替える。
*その基準で予想される検査数までキャパシティを引き上げる努力を行う。そのためのボトルネックがあれば列挙して対策を打つ。
*その予算を国がつけるべき。補正で不足するのであれば第二次補正予算を組む。

【注意点】
*検査に関する資源(ヒト・モノ・カネ)の確保と適切な方針は両方必要である。資源がないところに「方針がおかしい」と批判しても正しい方針を実現できない。「ヒトやカネをつけろ」と批判しなければならない。逆に方針がおかしいところに「ヒトやカネが足りない」と批判しても事態は改善しない。方針を改めねばならない。
*PCR検査は擬陽性・偽陰性の問題を生み出す。これを防ぐには,事前確率の高い場合に検査を行わねばならない。具体的には1)クラスター対策で濃厚接触者も検査する場合,2)市中の様々な症状の患者について,医師が臨床診断により感染を疑った場合。
*よって,検査の必要条件は1)クラスター追跡班が認めるか,2)医師が必要と認めるかである。専門家の判断を抜いたPCR検査はあり得ない。

【賛成できない議論】
*検査拡大論でも支持できるばあいとできない場合がある。「希望者すべてに検査を」「感染の実態を明らかにするために,できる限り片端から検査」に反対する。大量の「濡れ衣での陽性」「誤ったお墨付きによる陰性」を生み出す。検査の必要性は医師が判断すべきである。他の形であっても,検査の必要性を専門家が判断すべきことを抜きにして「とにかく検査を拡大せよ」という見解はおかしい。
*「帰国者・接触者外来」の要請によりPCR検査を保健所で行うというしくみに固執する見解に反対する。これでは必要な検査拡大もできない。
*いつでもどこでも「PCR検査を拡大すると医療崩壊する」,あるいは逆に「PCR検査を拡大しないと医療崩壊する」という見解に反対する。それは時と場合によるからだ。
*「クラスター対策は無効だからPCR検査を拡大しろ」という見解に反対する。市中感染が蔓延していない状況では,クラスター対策によって,他人に感染させる2割の感染者を効率的に発見・隔離できる。またクラスター対策だと検査が弱いかのように言うのは間違いで,クラスター追跡の際に積極的に無症状者も検査している。
*検査に関する思想・方針に批判を集中することに反対する。まちがっているのは思想・方針だけではない。保健行政が保健所のヒトという「資源」を確保しなかったことである。考えを変えるだけでなく,予算の裏付けを得て,人と組織を拡充させねばならない。予算・人員を政府に要求することなく,考え方だけ改めさせようとしても十分な効果は上がらない。

信用貨幣は商品経済から説明されるべきか,国家から説明されるべきか:マルクス派とMMT

 「『MMT』はどうして多くの経済学者に嫌われるのか 「政府」の存在を大前提とする理論の革新性」東洋経済ONLINE,2024年3月25日。 https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/daa72c2f544a4ff93a2bf502fcd87...