フォロワー

2019年11月25日月曜日

大澤昇平氏のTwitterについての所感:自分の問題を中国人の問題にすり替えているだけでは

<この記事は2019年11月24日15時29分にFacebookに投稿したものですので,それまでに入手可能な情報を反映しています>

 東大の最年少准教授と自らプロフィールに書く大澤昇平特任准教授の「弊社Daisyでは中国人は採用しません」(11/20, 午前11:12)ツイートが差別ではないかと炎上している。彼を雇用する東京大学大学院情報学環・学際情報学府は本日「学環・学府特任准教授の不適切な書き込みに関する見解」を発表した。

 私は,大澤氏がなぜ中国人を採用しないと考えるのかを確かめるために,彼のTwitterを24日12時までたどってみた。安全保障問題とかではなく「中国人のパフォーマンス低いので営利企業じゃ使えないっすね」(11/20,午後1:21)とのこと。

 え?

 世の中には数々の中国人批判もあれば日本人批判もあるが,「営利企業じゃ使えない」という中国人批判は初めて見た。いや,本当に驚いた。いま世界経済は,中国人が経営して中国人が働いている中国企業が急速に台頭しているから,色々変動しているのだが。それを好ましいと思うか嫌だと思うかは人の自由だが,中国人が営利企業でパフォーマンスを上げているという事実そのものを認められないとは。善し悪し以前に,何かがアサッテの方向にずれていないか。

 辛抱して大澤氏の発言をたどってみると,彼は要するに,ある集団の属性とある仕事のパフォーマンスに相関関係があることを以て,その集団から人を採用しないとすることは経済的に合理的だ,社会的にも妥当だと言いたいらしい。これは統計的差別という領域で,本来は真剣に検討しなければならない課題だ。それはそれで別途考えたい。

 だが,彼は今回,AIで大量のデータから集団の属性と仕事のパフォーマンスを分析したわけでも何でもないだろう。現に,いくらたどっても,営利企業において中国人のパフォーマンスが悪い証拠は示されていない。単に彼の個人的体験からの価値判断としか思えない。

 だとすれば,あれこれの理屈はみな空しく,「自分には中国人のエンジニアや労働者を使いこなせないと思った」というだけのことだろう。それならそうとだけ言えばいいのだ。自分個人の自信のなさを,中国人全体に問題があるとすりかえるのは,みっともなくないか。

※「学環・学府特任准教授の不適切な書き込みに関する見解」東京大学大学院情報学環・学際情報学府,2019年11月24日。

たどりたい方へ。大澤昇平氏Twitter

こちらは続編です。「大澤昇平氏のTwitterについての統計的差別論からの考察」。

2019年11月23日土曜日

誘導炉で鉄鋼をつくるベトナムのVASグループ

 ベトナム南部ビンズオン省に立地するVASグループのTue Minh Steel。資本金6062億5000万ドン(約28億5000万円),50万トンの製鋼・圧延能力を持ち,ビレットと建設用鋼材(おそらく棒鋼・線材)を製造する。圧延ラインの最初の方の試運転の動画がFacebookにアップされていた。キャプションによるとイタリアに本拠を持つダニエリ社製の圧延機とのこと。圧延された材料を切断機がシャカシャカと細切れにしているのがコミカル。これは,本来両先端部だけを切るところだと思う。粗圧延スタンドだけの試運転なので,ここで細切れにして,その先に材料が行かないようにしているのだろう。
 注目すべきは,ここに写っていない製鋼設備だ。これまで得た情報によれば,多くの国で一般的なアーク電気炉ではなく,誘導炉である。誘導炉はアーク電炉より小規模で,1-2トン/タップ程度のものもあれば12トン/タップ程度のものもある。アーク電炉の容量は100トン前後のものが一般的で,大型のものは300トンを超える。誘導炉は,小ロットで生産量を柔軟に調整しながら操業することができる。また,炉のつくりが単純で,かつ中国製のものが輸入されているので設備コストが安い。結果としてビレットの生産コストも低い。ただし,誘導炉は溶解するだけ成分調整はできないから,品質はスクラップの選別に依存する。小規模企業が機会主義的に多数参入すると,平均的な品質はアーク電炉炉メーカーより低くなる。VASグループの企業は複数あるが,それぞれ誘導炉企業としては最大級であり,グループとしての生産規模は正確に把握できないものの,おそらく100万トンを超えている。Tue Minhについては確認できないが,別の子会社An Hung Tuongでは取鍋精錬(LF)も導入しており,相対的に高品質のビレットも作っていた。
 中国では誘導炉による普通鋼の製鋼は違法として禁止され,2017年以後,政府による強制閉鎖が大規模に進められた。しかし,ベトナムでは誘導炉企業は合法的に操業しており,政府も規制する動きには出ていない。設備の選択それ自体は規制せず,安全・環境・品質規制に抵触すれば規制するという姿勢だ。そのため,棒鋼・線材市場ではアーク電炉,誘導炉,さらに小型高炉・転炉/電炉,線材に限っては大型高炉・転炉による製造も行われており,激しい競争が繰り広げられている。

Tue Minh Steel圧延工場の試運転(Facebook)。
https://www.facebook.com/theptueminh/videos/539260826621405/

2019年11月19日火曜日

日本製鉄広畑製鉄所の製鋼工程が電炉法に切り替わることについて

 製鉄所の再編・統合に隠れてあまり注目されていないが,日本製鉄は11月1日に,広畑製鉄所の製鋼工程を冷鉄源溶解法から電炉法に置き換えることを,第2四半期決算説明の一部として発表した。
 鉄鋼業界は,1980年代の円高不況期に過剰設備の削減に乗り出したが,この時,新日鉄(当時)の計画には広畑製鉄所の高炉休止が含まれていた。バブルを経て多少の延期はあったものの高炉は1993年に休止し,同年に製鋼工程は転炉法から冷鉄源溶解法に転換した。
 1996年に見学した際の記録によってまとめると,冷鉄源溶解法とは,型銑(固体・常温の銑鉄)とスクラップを加熱し,溶解炉で溶解して溶銑(融けた高温の銑鉄)と類似の鉄源を確保する方法であった。最初に前回のため湯100トンを残しておき,そこにスクラップや,大分製鉄所から運んできた型銑などの冷鉄源を投入する。その比率は当時は半々であった。これに上下から酸素・冷却LPG・窒素・粉炭を吹き込んで溶解し,出銑して取鍋にあける。以後は,高炉・転炉法と同じで,取鍋内で脱硫処理を行った後,脱炭炉(転炉)で脱炭・精錬し,さらに二次精錬を行ってから連続鋳造機に送り,鋳造してスラブにする。スラブが圧延やメッキを施されて各種の鋼板類になる。
 このプロセスならば高炉・転炉法と類似の品質の鉄源を確保できる。こうして,広畑製鉄所では圧延工程で電磁鋼板やブリキ,電気亜鉛めっき鋼板を含む高級鋼板を製造してきたのである。もっとも,半分以上は他の製鉄所から来るスラブを圧延していた。
 しかし,通常の高炉・転炉法よりコストも時間もかかる。高炉・転炉法では高炉から出銑された溶銑(融けた高温の鉄)が転炉に装入されるのに対して,冷鉄源溶解法では,大分製鉄所でいったん冷えて固まった銑鉄を広畑まで運び,もう一度加熱・溶解しているからである。
 広畑の製鋼工程は新日鉄時代から日本製鉄の長年の悩みの種であったため,今回,これを電炉法に切り替えるのは画期的な変革となり得る。ただ,公表資料には「高炉由来の高品位原料を活かし」とも書いてあるので,電炉法への切り替え後も,鉄源として型銑に依存する比率は高いのかもしれない。そうすると,いくらか画期性はそがれることになる。
 この上は,できる限りスクラップ比率を高めて欲しい。それが今回の措置の意義を高めるからだ。スクラップを主要鉄源にできればCO2排出原単位が画期的に低下するし,製銑工程を必要としないために製鉄所をコンパクトにできる。そして,冷鉄源溶解法が品質のために犠牲にしてきたコスト競争力を回復させられる。スクラップ・電炉法によって,差別化競争力の源泉である高級鋼板を製造できるのであれば,広畑製鉄所はコスト的にお荷物状態だった中型製鉄所から,未来型のコンパクト製鉄所に転換する。そして日本製鉄の未来には,地球温暖化の危機の時代に生き残るための一筋の光が差し込むことになるだろう。

「2019年度第2四半期決算説明会」日本製鉄株式会社,2019年11月1日。

2020年12月12日追記。その後の日本製鉄の温暖化対策。

2019年11月13日水曜日

「逮捕でなく書類送検」というFNNの報道はおそろしくミスリーディング

池袋暴走事件の報道だが,「逮捕でなく書類送検」という言い方はおそろしくミスリーディングだ。FNNは大丈夫か。

 世の中には,「書類送検」というと,「書類が送られて終わりで処罰されない」という誤解が蔓延している。それと対になって,「逮捕が処罰である」かのような誤解も蔓延している。この報道は誤解を助長する。

・警察が取り調べ→捜査終了→送検→検察が起訴するかどうか判断→起訴されたら刑事裁判

という流れは,逮捕されようがされまいが同じである。ただ,逮捕されて取り調べられていれば検察に身柄が送られ,逮捕されていないならば書類が送られる(法律用語ではないが,俗に書類送検という)。

 「逮捕でなく」と言うとすれば「逮捕でなく任意で取り調べ」だ。逮捕は処罰ではないし,逮捕されても取り調べられているだけであり犯罪者と決まったわけではない。逆に言えば,逮捕されようがされまいが,警察の取り調べで犯罪の疑いありとされたなら送検される。書類送検されたというのは罪に問われないどころか,犯罪の疑いありとと警察が判断して捜査を終了したということだ。今回の場合,これから検察が,飯塚容疑者を起訴して刑事裁判にかけるどうか決めるのだ。

 今回は遺族の方が「書類送検だけでなく、逮捕されて、本当に罪を償っていただきたい」という表現を使ったのだが,これは音声として流せばよいのであって,報道機関がそのまま見出しやテロップにするのは大いに問題だろう。

「池袋暴走の飯塚幸三容疑者 なぜ 逮捕ではなく書類送検」FNN PRIME,2019年11月12日。

ニュース映像。テロップで,遺族インタビューの映像より前に「なぜ逮捕でなく書類送検」としている。

2019年11月3日日曜日

MMTも自国通貨の信用が失われる危険について考えている

この五十嵐敬喜教授の主張は,自国通貨の信認に関する常識的なイメージとMMTの関係を説明する材料としてちょうどよい。

(引用)「今後、高齢化がいっそう進むわが国では、債務超過額はさらに拡大する可能性が高い。抵抗が大きい増税や歳出削減でそれを食い止めようとしても、実現不可能だという他ない。その現実を多くの人々が自覚したとき「自国通貨建ての債務に限界はない」とか「財政の資金繰りに問題はない」と言い続けられるだろうか。」

 言い続けられる。自国通貨建て債務で政府がデフォルトを起こすことはないからだ。心配すべきところは,そこではない。

(引用)「物価とは本来、人々が自国通貨を信用できなくなったときに歯止めなく上昇するものだ。」

 その通りだ。

「通貨に対する人々の信頼の根源が国(の財政状況)に対する信頼であることは言うまでもないだろう」。

 ここがおかしい。自国通貨への信認が失われる理由は1)自国通貨建て債務がデフォルトを起こしそうになるから,ではない。それは心配ない。本質的には通貨を発行して返済することができるからだ。

 心配すべきは,2)政府がインフレを止められない場合,3)それと関連するが政府に必要な課税能力がないとみなされた場合,4)政府がバブルとその崩壊を止められない場合,5)政府もしくは民間の外国通貨建て債務が大量にデフォルトを起こしそうな場合,6)それと関連するが為替レートが暴落した場合だろう。「通貨に対する人々の信頼の根源は」,a)人々が租税納入のためにそれを保有せざるを得ず,したがって保有したがることによって,またb)通貨=政府債務が,より汎用性の低い債務(個人の債務,企業の債務,銀行の預金債務)を信用代位して決済システムを支えていることによって保たれているのである。2)3)4)5)6)はこれらa)b)を危うくするのだ。

 MMTも,不況であると好況であるとを問わずに財政赤字をひたすら増やす財政運営をすべきだとか,してよいとか言っているわけではない。それでは少なくとも3)と2)に問題が生じるし,4)5)6)にも生じるかもしれないからだ。MMTが述べているのは,財政赤字を出すべき時には出し,減らすべき時には減らすべきだというだけのことであり,ただし景気循環を通して財政赤字があり続けること自体は問題ないということだ。この点でMMTは何ら奇論ではないし,財政赤字で一切が救済されるという宗教宣伝でもないのだ。

五十嵐敬喜「自国通貨でも債務は債務」三菱UJFリサーチ&コンサルティング,2019年8月28日。

2019年11月2日土曜日

MMT派のように恒常的財政赤字を肯定する見地からは,「財源」論をどう考えればよいのか

 私は2019年3月18日の投稿では,本格的な再分配政策には消費税も欠かせないとする井手教授が『幸福の増税論で』展開した財源論を,プライマリー・バランスの赤字解消は必要ないという点を割り引いたうえで,示唆に富むと評価していた。しかし,2019年10月30日の投稿では,井手英策教授が,財政赤字の拡大を助け合い思想の欠如と結びつけていることを批判した。これは,3月の時点では財政理論についての私の考え方がいまよりも不安定だったことにもよる。そこで,現時点での考えを改めてノートしておきたい。

 これを一般的に言うならば,「MMT派のように財政赤字の恒常的存在を肯定する見地からは,支出増に対応した『財源』論をどう考えればよいのか」という課題について考えようというのである。

 まず財政についての基本的な考え方について。私は経済が成熟し,高成長が望めない先進資本主義国においては,財政赤字は常に存在してもかまわないし,むしろ存在しなければならないだろうと考えている。そして,赤字幅は拡大すべき時は拡大し,縮小すべき時は縮小すべきだと考える。MMT派が盛んに主張していることだが,ほんらい財務省も認めているように,1)通貨発行権を持つ主権国家は,その債務が自国建てである限りデフォルトを起こすことはない。なので,「借金が返せなくなる」という心配はないのだ。また,別途詳しく述べたが(※),2)財政赤字が金利の高騰を引き起こし,民間の投資資金調達をクラウド・アウトするということもない。この点はMMT派が正しく,常識の方が誤っている点である。ただし,3)モノやヒトなどの経済資源は希少であるから,野放図に財政赤字を拡大すると資源動員の限界やボトルネックに突き当たり,インフレ=モノとヒトのクラウド・アウトを起こす危険は存在する。また,4)財政支出が実物資源の購買力にならずに金融資産購入に回ってバブルを引き起こし,ある時点でそれが崩壊する危険も存在する。さらに,5)対外的に為替レートの急落を引き起こし,通商を混乱させたり対外債務のデフォルトを招く危険もある。だから,1)2)の心配はなくとも,3)4)5)には注意した財政運営が必要である。その制約条件の下で,失業をなくし,貧困と格差を緩和し,市場の失敗を補正し,社会的に望ましい行動を促進する一方望ましくない行動はくじくように財政を運営することが原則である。つまりは経済を望ましく機能させることが重要なのであって,その結果,財政が赤字であっても黒字であっても,それ自体は問題ではない。このような見地は,私はまだ学んでいないものの機能的財政論に近いだろうと予想している。

 さて,このような財政運営を成熟した資本主義経済で行った場合,景気循環を通して平均的にみると赤字になる可能性が高い。常時,格差と貧困に対処しなければならないし,傾向的な高齢化に対処しなければならないし,不況期には失業者が多数発生するからだ。赤字であること自体は,3)4)5)の条件を満たすならば全く問題はない。もっとも,満たすためにはモノ・ヒトが十分に存在しなければならないから,GDPにどう表現されるかどうかはとにかく,富の蓄積と人の教育という実物の面での経済開発は継続する必要がある。いくら医療に財政資金を投入しても,すぐれた医者や看護師がおらず,医薬品の研究・開発・生産が困難であって供給不足に陥ってはどうにもならない。その意味で,「成長か分配か」の二者択一論は不毛であり,分配の改善も必要ならば,必要なヒト・モノ・サービスが確保できるという意味の経済開発も必要である。

 以上のように考えるので,私は井手教授の助け合い,分かち合い,頼りあいの社会思想には賛成するのだが,財政にハードな予算制約を想定して,納税で痛みをわかちあうべきとする財政思想には賛成できないのである。経済を機能させるためには,国債を大いに発行して財政赤字が拡大すべき局面もあれば,課税を強化して財政黒字を出すべき局面もある。しかし,平均して財政は均衡させるべきという根拠はなく,平均すればむしろ赤字であろうと考えるのが,成熟した資本主義経済では現実的である。だから,財政赤字それ自体は,人々の助け合い思想の欠如でもなければ,民主主義の機能不全でもないのだ。

 さて,ここまでは井手教授に対する批判であり,MMT派に近い考えだ。しかし,では財政赤字はあってもかまわないという立場に立つとして,その立場からは,井手教授が論じている再分配革命の財源をどう考えればよいかという問題が生じる。井手教授の再分配革命が支出面で達成したいこと,つまり「生きるためのニーズが満たされる」ための事業が政府によってなされるべきことは私も賛成だ。では,その際,井手教授のように財源を計算するのはまちがいなのだろうか。

 一部,明らかに批判すべき点はある。それは,井手教授がプライマリー・バランスの均衡化に必要な財源まで想定していることだ。私は,それは必要ないと考える。では,それ以外の部分はどうか。井手教授は,教育と医療の無料化には12兆円プラス関連経費でおおむね19-20兆円が必要だとして,それに対応して歳入も20兆円必要だと考えている。そして消費税増税も必要だと言われる。ある程度財政赤字があってもかまわないという見地からは,このシミュレーションにどうコメントすべきなのだろうか。この点を解決することが,批判に伴う責任だろう。

 例えば,MMT派の貨幣論に立てば「財源」という概念自体が否定される。しかし,だからと言って,歳出と歳入の量的バランスの問題を考えなくてよくなるわけではない。恒常的な支出増だけを実行すれば,その分だけ財政赤字は常時増大する。しかし,財政赤字は拡大することが望ましい局面と縮小することが望ましい局面がある。インフレ圧力が高まったリバブルが生じたりしたりする好況局面では赤字圧力は望ましくない。だから,デフレの時期には財源を気にせず,当面の支出を赤字国債で賄えということはできるものの(そういう方向の主張は,現在の日本でMMTやリフレ論に基づく反緊縮派も行っている),常時そうしてよいわけではない。不況期も好況期も含めて一般原則として歳出歳入バランスはどうあるべきかを,MMT派であっても考えねばならない。

 まず望ましいのは,ランダル・レイの『MMT 現代貨幣理論入門』でも指摘されているように,財政支出は反循環的,つまり不況期に増えるように設計し,課税による歳入は順循環的,つまり好況期に増えるように設計することだ。この点では,財政学の常識とMMT派は一致している。

 ただ,常識を変えねばならないのは,景気循環を通して財政を均衡させる必要はなく,ある程度の財政赤字は常時あってもよい,ある方が望ましいということだ。しかし,どのくらいの赤字が常時あることが望ましいのか?この財政赤字の望ましい平均水準を想定することが必要だと思うが,これは状況に依存し過ぎていて,事前に定めるのが容易ではないように思う。そして,この困難が,財政拡大を必要とする事業を構想する際の財源論を難しくする。

 教育や医療の無償化に20兆円かかるとして,その財源も20兆円必要だということはないだろう。恒常的な赤字をある程度増やすことで対処してもよいからだ。しかし,前述のように歳入をまったく考えておかないと,インフレやバブルに耐えられないだろう。それでは歳入増はいくら必要だろうか。5兆円だろうか。10兆円だろうか。17兆円だろうか。この見当がつかないと,話は先に進まない。

 一時的な事業による支出増や強度に反循環的な支出であれば問題は難しくない。しかし,教育や医療に対する支出は,ほとんどは景気循環と関係なく,一定規模で存在し,かつ,増え続ける可能性も高いものだ。この支出は当然財政に赤字への恒久的圧力を加える。妙に聞こえるかもしれないが,不況ならば話は難しくなくて,財政赤字を出せばよい。しかし,むしろ好況に転じて,インフレやバブルが生じそうになった時が問題だ。教育・医療の無償維持が必要だとすれば,強力な財政赤字圧力に対抗して,課税を強化し,歳入を増やさねばならないだろう。その手立てを,インフレが生じそうになってから考えるのでは手遅れである。教育・医療の無償化を企画する時点で設計しておかなければならないだろう。

 ということは,「財源」と呼ぶべきかどうかは別として,再分配革命のための支出増の構想には,一定水準の安定した歳入増の構想が伴わねばならない。歳出・歳入のバランス論は,MMT派でもやはり必要なのである。歳出増と歳入増をイコールにする必要はない。一定の財政赤字増を想定してもよい。しかし,その妥当な赤字増大幅を合理的に想定しておかねばならない。ここが難しい。これは,MMT派のような財政赤字を許容し,むしろ奨励する学派にとって突き付けられた政策的課題であると思う。

 このように考えるならば,井手教授が,再分配革命の支出増にどのような歳入増を対応させるか,その際,安定した歳入源は何か,税の種類によって人々にどのような動機が与えられるかとシミュレーションしていることは,やはり重要だ。そして,想定すべき赤字幅がわからない状態では,考察の出発点として,歳出増=歳入増の条件でまずシミュレーションしてみることも,思考の手続きとしては合理的だろう。そうしたシミュレーションそのものを頭から拒否するのは適切でない。

 その上で,井手教授の主張をそのまま受け入れる必要はない。まず,プライマリー・バランスの黒字化は不要なので,そのための歳入増は必要ない。次に,歳出と歳入を完全にイコールにする必要はない。常時あるべき財政赤字幅に対応した当該事業の歳出超過幅を何とかして算定し,その分は国債を発行するとすればよいだろう。そのように増税必要額を割り引いて言った場合に,どのような結果になるだろうか。消費税を増税せずとも,所得税や法人税の累進性強化や,実行可能な資産課税,様々な大企業に有利過ぎる税額控除の廃止・縮小によって,十分な歳入増が確保できるだろうか。井手教授の所説を手掛かりに,そしてその所説を乗り越えるためには,ここが解明すべき課題だと私には思える。

「<財政赤字はアンモラルだ>という考えが,井手英策教授の理想の実現を妨げている」Ka-Bataブログ,2019年10月30日。

「本格的な再分配政策には消費税「も」欠かせない:井手英策『幸福の増税論 -財政は誰のために』岩波新書,2018年を読んで」Ka-Bataブログ,2019年3月18日。


2019年11月1日金曜日

鉄鋼の過剰生産能力に関するグローバル・フォーラムの終結について

 鉄鋼の過剰生産能力に関するグローバル・フォーラムの延長に参加国・地域の合意が得られなかった件。グローバルフォーラムの意義は,「過剰生産能力の規模が大きく,かつ慢性化することは問題だ」という認識の共有,生産能力に関する情報の共有,能力調整の実施状況をモニタリングし,あまりに不正常な行動が起きないように抑止しあうこと,であったと私は思う。逆に言えば,能力削減を直接に推進したり,監督したりする機能は持っていなかった。つまり,能力削減に直接の実効性を持つものではなかった。

 なので,このフォーラムがなくなっても,各国・地域における能力調整の取り組み自体はそれほど影響を受けないだろう。その点では,さほど深刻に考える必要はない。

 ただし,能力に関する情報を共有し,意見を交換する場が縮小することは問題がある。極端な独自行動に出る国・地域があった場合,これを抑止しにくくなるからだ。また,鉄鋼統計を共有する場が縮小することにも問題がある。産業統計は通商政策の基礎となり,逆に政策を評価する基本情報ともなるものだが,その国際的な比較可能性に問題があるからだ。鉄鋼統計は国・地域によって基準のズレがあり,精度もまちまちであって,そこから認識のずれや極論も生まれやすい。

 こうした意味ではグローバルフォーラムが継続されなかったことは残念だ。とくに生産能力情報については,国際的に共通の情報に基づいて意見を交換し合える場はOECD鉄鋼委員会だけになってしまった(World Steel Associationは能力情報は公表してない)。こちらを拠点にして,新たな取り組みを再構築するしかないだろう。


「鉄鋼の過剰生産能力に関するグローバル・フォーラム閣僚会合を開催しました」経済産業省,2019年10月26日。

『ゴジラ -1.0』米アカデミー賞視覚効果賞受賞によせて:戦前生まれの母へのメール

 『ゴジラ -1.0』米アカデミー賞視覚効果賞受賞。視覚効果で受賞したのは素晴らしいことだと思います。確かに今回の視覚効果は素晴らしく,また,アメリカの基準で見ればおそらくたいへんなローコストで高い効果を生み出した工夫の産物であるのだと思います。  けれど,私は『ゴジラ -1.0...