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2019年3月21日木曜日

MMT(Modern Monetary Theory)についての覚書

最近,欧米リベラルの一部が依拠しているらしいMMT(Modern Monetary Theory)について。講義に関連するので興味はあるが,オリジナルの論文を読んで勉強する余裕は到底ない。さりとて新聞記事レベルでは「いくら財政赤字を出しても大丈夫」という話としてしか紹介されておらず,何だかよくわからない。幸い,主唱者の1人らしいビル・ミッチェル氏のブログが「経済学101」で訳されており,それをその他のブログの記述で補うと,おそらく以下のようなものであるらしい。

◇貨幣理論
*MMTは経済学的に貨幣理論とケインズに対する一定の理解を基礎としている。

*MMTは信用貨幣論を採る。現在流通している中央銀行券を政府債務と見るし,預金通貨を銀行の債務が通貨化していると見る。

*MMTは納税に利用されることが発券集中,つまり中央銀行券に通用力が集中した理由と見る。

*MMTは内生的貨幣供給論を採る。需要に応じて銀行が貸し出すことによって貨幣が供給されると見る。

*MMTが信用貨幣論と内生的貨幣供給論を採るということは,経済学の主流の見方である「銀行は,預けられた預金を貸し出している」というのは誤りであって,「銀行は,貸し付けることによって通貨を創造している」という見るのが正しいと主張していることを意味する。

◇非自発的失業
*MMTは,非自発的失業が発生するのは,民間部門が労働者を必要としてはいるが,貨幣を保有するために収入の一部を支出せずにおくためだと考える。純貯蓄需要と納税需要が失業を呼び起こす。

*MMTは,政府純支出によって失業を減少させることができると考える。

◇金融政策論
*MMTはヘリコプターマネーのように中央銀行が通貨を直接民間に供給することは,そもそもできないとする。中央銀行ができるのは,中央銀行が金融機関から金融資産を得て準備預金を増やしてやるという交換だけだ。

*MMTは,準備預金を増やすことと銀行が貸し出しを増加させることの間には関係がないとみる。民間の側に需要がない限り貸し出しは増えない。

*MMTが上記のような考えを取るのは,「銀行は準備預金を引き出して貸し付けている」とみておらず,「銀行は貸し付けることによって通貨を創造している」と見ているからである。

*MMTは,準備預金の量と金利を調節することを通じて望ましい金利の達成のために努力することは中央銀行の主要な機能だと認めている。つまり,中央銀行は金利を調節しているし,金利を調節することはできるが,通貨供給量を調節することはできないと考えている(4/13追加)。

◇財政政策論
*MMTはマクロ会計を重視し,政府,民間,海外のバランスがゼロになることを重視する。各部門の赤字・黒字は相殺されてゼロになる。政府の債務は,それと一致する民間が海外部門の債権と対応している。

*MMTは政府と中央銀行は一体である,またはあるべきと考える。政府と中央銀行が統合政府とみなされることの上にMMTは成り立つ。

*MMTは,通貨発行権を持つ(統合)政府であれば,自己ファイナンスが可能なのだと見る。つまり,財政赤字によって財政が破綻することはないし,政府収入のために租税が必要なのでもないとする。ここが直感や従来の諸理論ともっとも異なるところである。

*MMTは租税は政府の資金調達のために必要なのではないとする。資金調達は自己ファイナンスでいくらでも可能だからだ。

*MMTは,財政政策は完全雇用達成やインフラや社会保障システムの整備など,政策目的のために行われるべきであり,その際に財政赤字は制約にならないと見る。

*MMTは財政赤字の拡大はクラウディング・アウトを起こさないとする。民間銀行が国債を購入すると,銀行が中央銀行に持つ準備預金から政府預金に振り替えが起こるのであって,流通している通貨が減少することはない。中央銀行に預けられた預金の持ち主の構成が変わるだけである。そして,政府がその預金を引き出して支出すれば,それは誰かの銀行口座に振り込まれるのであって,民間の預金が増え,通貨供給量も増える。つまり,政府が財政赤字を拡大することが原因で政府の債務が増えて民間の資産が増える。経済学の主流のように,民間の貯蓄がまずあって,それを国債に投資してもらうのではない。だから,国債を大量に発行すると民間貯蓄が枯渇するというクラウディング・アウト論は間違いである。

*MMTは,需要が生産能力の限界に達するまでは,悪性インフレーションは起こらないと考え,そこまでは財政拡張が有効であるとする。生産能力の限界が財政政策の限界であって,生産能力がフル稼働している状態では,財政支出を行ってもインフレだけが生じると考える。

<最小限のコメント>
*MMTの政策的見地
 MMTの政策論的立場は「金融緩和にはさしたる効果がなく,財政政策こそ非自発的失業解消の王道」というものである。そこだけ見ればIS=LM分析によるケインジアンのようであるが,財政赤字という制約は一切ないと主張するところが異なる。
 MMTは通貨膨張による景気刺激というリフレーション政策を明確に否定する。そのため,金融政策においてはリフレーション派と全く異なり,正面から対立する。
 MMTは統合政府は財政的に破綻しない,自己ファイナンスが可能と主張する。この点は,リフレーション派の中の,財政政策は無効とするグループと対立し,財政政策活用も併用すべきで国債の日銀引き受けもすべきだとするグループと一致する。

*感想
 私個人は,MMTの貨幣・信用理論と金融政策論には全く違和感がない。私が,日本のマルクス経済学の貨幣・信用理論からたどりついた考えとほとんど同じである。リフレーション論がまちがっている理由,量的・質的金融緩和がいっこうにインフレを起こせない理由もMMTによって指摘できる。
 
 他方,MMTの財政政策論は,直観的に非常に分かりにくいが,その核心は中央政府と中央銀行が一体だとする統合政府論であると思われる。まだ理解できた自信がないが,政府を家計のような予算制約があるものと考えるとわからない。おそらく,政府を発券銀行のようなものと考えると理解可能になる(2019/5/8追記。どうもそうらしい。こちらをクリック)。

 発券銀行は,貸し付けも支払いも,自ら発行した自己宛債務=銀行券と預金通貨で行うことができる。銀行券は,その信用が保たれている限りにおいて,受け取り拒否や,額面以下へのディスカウントもなく決裁に用いられ,流通するだろう。
 MMTが想定している政府=中央銀行は,この発券銀行のように行動する政府である。よって,手元に現金がなくても自己宛小切手を切るなどの手段で支出できるし,支払い不能になることもない。赤字は自ら銀行券と預金通貨の創造か,せいぜい中央銀行からの債務増大,あるいは国債の中央銀行引き受けで補ってしまうというのだ。はっきり読み切れないのだが,こう言っているのだと思う。

 3点保留しておきたい。

 第1に,この統合政府論を受けて入れてよいかどうかである。日本を含む少なくない諸国で,中央銀行の政府からの独立性を保つ制度が取られていることには,一定の意味があるはずであり,そこを再検討する必要があると思われる。
 これに関連して,ブログを読んだだけではわからないのが,財政赤字は政府債務を生み出すはずであり,それは,統合政府とはいえ中央銀行と政府の勘定が別になっている時にどのように処理されるのかだ。私が思うには,中央銀行が政府に貸し付けるか,国債を購入することによってなされると思うのだが,それがミッチェルのブログではあまりはっきり書かれていない。
 そして累積した政府債務をどうするのかが,またよくわからない。政府発行の不換紙幣ならば政府自身が発行する紙幣で支払うことができるが,政府と中央銀行の勘定が分離して中央銀行券が通貨である以上,政府に債務,中央銀行に債権が累積していく。永久に借り換えすることで維持する,あるいは中央銀行の黒字を納付金として政府に戻すことで維持するのではないかと思うのだが,はっきり書かれていない。

 第2に,非自発的失業と遊休能力がある場合に,統合政府が通貨を増発して財政政策を行った場合にインフレが起こる可能性に無警戒なのは正しいか。財政支出で遊休生産能力と在庫と非自発的に失業している労働力だけをピンポイントで現行価格で購入できれば,インフレは起きないかもしれない。しかし,財政支出の一部は多方面に拡散してしまうし,寡占的市場も存在するので,財政支出の一部は生産増に向かわず価格上昇に向かってしまう。またこの形で投入された通貨は貸付=返済と異なり流通外に出てくるメカニズムがないので,増税による調整を行わない限り通貨量の一方的純増となり,インフレ要因となるのではないか(2019/5/6補足。おそらく,だからインフレ抑止のために課税をきちんと行わねばならない,という主張のようである)。

 最後に,この政府=中央銀行の限界は,発券銀行と同じく,いまや通貨となっている不換銀行券の信用維持にあると思われる。財政赤字を出していっても「支払えない」という意味での破綻は確かにしないだろう。しかし,通貨及び国債の信用が下落するリスクは大いにありうるのではないか。私は,財政赤字をゼロにする必要性は全くないが,通貨及び国債の信用維持が,その持続可能性を画すると思う。

 以上,私が初心者として理解できた限りのMMTは,1)信用貨幣論,内生的貨幣供給論という理論的基礎と,金融政策論については全く違和感がない。しかし,2)統合政府論と財政政策論が今一つ呑み込めないというのが正直なところだ。
→(2019/5/7追記。ある程度理解できました。以下の続編をごらんください)
「MMTが「財政赤字は心配ない」という理由:政府財政を中央銀行会計とみなすこと」Ka-Bataブログ,2019年5月7日。
(2019/5/11追記)
「MMT(現代貨幣理論)の経済学的主張と政治的含意」Ka-Bataブログ,2019年5月11日。
(2019/7/8追記)
「MMTではゼロ金利下において金融政策と財政政策の役割が入れ替わる」Ka-Bataブログ,2019年7月7日。
(2019/9/29追記)
「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(1):信用貨幣,そして主権通貨の流通根拠」Ka-Bataブログ,2019年9月3日。
「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日。
「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準」Ka-Bataブログ,2019年9月22日。






<参照文献>
ビル・ミッチェル「中央銀行のオペレーションを理解する」(2010年4月27日)2019年2月12日 by 望月夜,経済学101。

ビル・ミッチェル「貨幣乗数 ― 行方不明にて、死亡と推定」(2010年7月16日)2018年7月25日 by 望月夜,経済学101。

ビル・ミッチェル「明示的財政ファイナンス(OMF)は財政政策に対するイデオロギー的な蔑視を払拭する」(2016年7月28日)2018年4月3日 by 望月夜,経済学101。

ビル・ミッチェル「納税は資金供給ではない」(2010年4月19日)2018年3月4日 by 望月夜,経済学101。

ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 1」(2009年2月21日)2018年1月31日 by erickqchan,経済学101。

ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 2」(2009年2月23日)2018年2月2日 by erickqchan,経済学101。

ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 3」(2009年3月2日)2018年2月15日 by 望月夜,経済学101。

ビル・ミッチェル「準備預金の積み上げは信用を拡張しない」(2009年12月13日)
2018年3月16日 by 望月夜 

MMT 日本語リンク集,道草。

<関連投稿>
「リフレーション派の理論的想定と「異次元緩和」の実際は矛盾している」Ka-Bataブログ,2019年3月3日。
「森永卓郎さんとの対話を通して,新しい構造改革の必要性を考える」Ka-Bataブログ,2019年2月17日。
「稲葉振一郎『新自由主義という妖怪 資本主義史論の試み』を読む」Ka-Bataブログ,2018年11月1日。
「ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は<経済>を語ろう』亜紀書房,2018年によせて (2018/6/21)」Ka-Bataアーカイブ。
「日銀による金融政策だけで物価を上げようとすることの限界について(2018/6/16)」Ka-Bataアーカイブ。
「アベノミクスのどこを変えるべきか? 野口旭『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書,2018年)に寄せて (2018/5/13)」Ka-Bataアーカイブ。

(2019年5月2日追記。私の考えをまとめて示す以下のノートを公表しました)
「信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて」Ka-Bataブログ,2019年5月2日。
第1節
第2節
第3節
第4節
第5・6節(完)

(2019年4月8日にアンダーライン部分を加筆・修正→2019年5月2日,そこだけ強調していると誤解される恐れがあるのでアンダーラインを削除)

2019年3月18日月曜日

本格的な再分配政策には消費税「も」欠かせない:井手英策『幸福の増税論 -財政は誰のために』岩波新書,2018年を読んで

 「日本経済」の2019年度講義準備。実は,昨年度は財政については最小限度しか触れていなかった。それは「財政学」という別の科目があるからだ。しかし,最小限度ふれようとすると2019年度はどうしても消費税について触れざるを得ないので,いままで放置していた井手英策教授の本を読むことにした。

 私は,本書の財政思想については,考えるだけの理論的素養が不足しており保留する。しかし,再分配を重視する立場から見てもっとも衝撃的だったのは,本書の税制改革シミュレーションだ。つまり,リベラルの側から再分配革命を行い,誰もが人としてのニーズを満たせるような社会を作ろうとすると,どうしても消費税増税という手段「も」使わざるを得ないということだ。

 まず,著者は再分配革命に必要な経費を消費税増税だけで賄うとどれくらいの税率引き上げが必要になるかを提示する。

■消費税1%増税で見込まれる税収:2.8兆円

■教育無償化と医療費無償化に必要な税収
*自己負担解消12兆円プラス関連経費(未記載だが7-8兆円と言いたいらしい)
*消費税で賄う際の引き上げ率:7%強

■基礎的財政収支の赤字解消のために必要な税収(実質成長率1%と仮定)
*8.2兆円
*消費税で賄う際の引き上げ率:3%強

 つまり,消費税率を11%引き上げねばならない。仮に消費税を排して,すべて所得税で賄おうとすると富裕層(給与収入にして1237万円以上なのでかなり広い)への税率を220%上げるか,全階層の税率をそれぞれ約30%ずつ引き上げねばならず,とても無理だ。

 「現実的には,富裕層課税と同時に,税収調達力に富む消費税もセットで引きあげ,垂直,水平,双方の公平性を強化していく戦略が現実的だということになる」(130ページ)。岩波書店の校閲をくぐり抜けて「現実的」が重複しているあたりが,著者のリアリズムであろう。

 そこで著者は以下のような方策を提示する。

■税制パッケージ
*富裕層の所得税率を5%上げる→7000億円税収増。
*法人税率を現在の23.2%から第2次安倍政権以前の30%に戻す→3.4兆円税収増。
(課税ベース拡大や金融資産課税で補完することも可)
*相続税の平均税率を5%上げる→5000-6000億円税収増。

 これで総額4-5兆円になる。ということは,

*消費税の引き上げ率:約9.2-9.5%

とやや抑制できるが,やはり消費税は相当程度引き上げねばならない。

 もちろん,他の方策を組み合わせて富裕層課税をより強めることもできるが,大きくは「中途半端な貧困対策ではなく,大胆な社会改革を求める頼りあえる社会においては,富裕層課税のみでは到底実現不可能であること」が著者の強調する点だ。

 井手教授のモデルに対して私がコメントできることがあるとすれば,基礎的財政収支の赤字をゼロに持っていくことは必要がないと考えることだ。私は,財政赤字は,円と国債が信任を維持できる限りであれば,ゼロにする必要はないという立場だ。しかし,財政改善に使うお金をなくして,消費税引き上げ必要率を4%引き下げたとしても,なお,5%強は引き上げねばならないことになる。

 再分配の強化という目的を前提にしても,また富裕層課税は強化するにしても,それでも消費税増税は避けがたい。このことは重大だ。本書の描いた税制イメージを念頭に置きながら,財政の部分の講義を考えていこう。

井手英策(2018)『幸福の増税論 -財政は誰のために』岩波新書。

(2019/5/6一部修正)

2020/2/12付記
 私はこの投稿を書いたころ,同時に井手教授と対立する赤字財政容認論の勉強も始めた。そして約半年検討した結果,私は原則的に後者が正しいと認め,「支出増の分だけ財源も必要」という考えを放棄するに至った。したがって,現在はこの投稿の見地に立っていない。井手教授の見解に対しては,以下のように考えるようになった。




2019年3月11日月曜日

2018年度卒業論文特集号によせて ーあの日のゼミー (産業発展論ゼミ誌『研究調査シリーズ』No.37所収)

 本号に収録するのは,2018年度に学部ゼミを修了する皆さんの卒業論文です。
 ゼミを毎週やっていてもっとも気になるのは,「今日の経験は,ゼミ生の心に残るのだろうか」ということです。たいていの場合そんなわけはなくて,今日のゼミの内容も明日には忘れられるのかもしれません。でも,私は,ゼミ生のその後の人生のどこかで,思い出されて力になるようなゼミをしたいのです。なぜならば,自分もそのような経験をしてきたからです。
 最近も,授業をするうえで,かつてのゼミの経験に助けられました。私は,2016年度まで学部基本専門科目「企業論」を担当していましたが,今年度から「日本経済」担当に変わりました。講義準備にあたってはいくつかの難しい問題がありましたが,その一つは,直接にはアベノミクス,広くはマクロ経済政策を論じなければならないことでした。しかも,アベノミクスの最大のポイントは,インフレ・ターゲティングを伴う金融緩和であり,およそ自分にとって得意とは言えない金融論を使わないと評価できません。
 あれこれとあがきながら,ようやく「金融緩和という方向性は,引き締めるよりは妥当であったが,金融政策に過度な期待をかけたことは適切ではなかった。この過度な依存を正当化したリフレーション論は理論的に誤っていた」という見地にたどりつき,講義を構成することができました。これは実は,大学院生時代の研究会やゼミでの学びのおかげでした。
 リフレ論に対する私の批判は,一方では実務の説明に基づいています。リフレ論は,中央銀行が,実体経済の需要増を実現するための通貨の需要と関係なく,貨供給量を一方的に増やせるかのように主張しています。極端な形としてヘリコプターマネー論が唱えられたのはその表れです。そして,「デフレだから不況になるのであって不況だからデフレになるのではない。インフレにすれば好況になる」のだから,通貨供給量を増加させてインフレを起こすべき(リフレーション)と主張したのです。しかし,日銀の金融調節は,通貨供給量を直接に増やすことはできません。いくら買いオペが行われても,それだけでは市中銀行の日銀当座預金が増えるだけです。それで短期利子率を下げて企業が銀行からお金を借りやすくし,極端にはマイナス金利のように,銀行が日銀当座預金以外の資産運用方法を探すように刺激するのです。それで確かに実体経済の需要を刺激することはできるし,需要増大の結果としての物価上昇を誘導することはできます。しかし需要と関係なく通貨供給量を一方的に増やして,名目的物価上昇を起こすことはできないのです。
 これは,実務を丁寧に見ただけでも言えることなのですが,その背景として,通貨供給は実体経済の必要に応じて増え,必要がなくなれば収縮するという金融論,マルクス経済学で言えば貨幣・信用論を持っている必要があります。私は,日銀の金融調節について調べている時に,自分がそのような理論を学んでいたことを思い出したのです。それは,副指導教官であった村岡俊三教授から学んだものでした。もちろん,その著作からも学びましたが ,何しろ素養が足りないので読んだだけではわかりません。むしろ,何度か,私に大きなショックを与え,貨幣と信用に対する見方を変えたゼミがあり,それが心に残っていたのです。今回,これを書くにあたって,当時のレジュメやノートを確かめて,詳細を確認してみました。
 まず,前期課程2年の時,1988年7月1日の国家独占資本主義研究会です※2。この日報告を行ったのは,大学院で同期だったH君でした。H君は信用インフレーションを全面的に認める見地から報告を行ったのですが,そこで村岡教授が以下のように疑問を呈しています(当時の手書きノートから再現)。
――
村岡/信用膨張→滞貨一掃。物価上昇→やがては下降。これはインフレではない。景気変動の諸局面でのことだ。下降しないようなものだけをインフレというべきだ。
H/下降する,しないで区別するべきではない。
村岡/しかし,そこで流通外からの購買力を出してくる。だが,景気変動の諸局面でもW-GなきG-Wは出る。せっかくつけた区別がなくならないか?価格標準の切り下げはどこで判別するかが分かってないのでは?
H/確かに。景気循環-好況とインフレの区別がつきにくい。
――
 信用膨張で実体経済が拡大して実質的に物価が上がることと,通貨価値が切り下がって名目的に全般的物価上昇が起こることは違います。信用インフレーション論は,銀行の信用創造が拡大すると,どうして前者だけでなく後者が起こるのかを説明しなければなりません。H君は,この時点ではそれがうまくできませんでした。
 この日の研究会は,どのような場合には流通外からの購買力を投じたことになり,インフレにつながるのかに議論が集中しました。私は初めて,そのことを分析的に考えないとインフレのメカニズムは解明できないのだと知りました。
 残念ながら,H君は大学院を途中でやめてしまい,故郷の北海道に帰って公務員になりました。
 次は,1990年5月30日と7月30日の国際経済論特論・特殊研究 ,端的には大学院の村岡ゼミでした※3。このゼミでは,修士論文作成のために佐藤俊幸さん(現・岐阜経済大学教授)が報告されました。佐藤さんは不換銀行券論争と不換制下でのインフレについて詳しく研究史を報告されました。私はこの時,不換銀行券が返済や預金によって還流する,つまり必要に応じて流通に入り,不要になれば流通外に出る,言い換えると紙幣流通法則でなく貨幣流通法則にしたがうために,思っていたよりもインフレが起きる場合は限られることを知り,衝撃を受けました。
 5月30日のゼミで村岡教授は,単純商品流通を前提として論じられた貨幣流通法則が,信用論の前提の上でどう生きるかについて解説されています(レジュメに書き込んだメモから再現)。まず,単純商品流通の下では蓄蔵貨幣も支払い手段も世界貨幣も金であるが,信用制度の下では蓄蔵貨幣は銀行預金,支払い手段は銀行券,世界貨幣は外貨準備であるとします。そして,大要次のように言われました。
――
村岡/岡橋(保)先生は,銀行券が収縮すると言いながら,蓄蔵貨幣は金だけとするのがおかしい。どこで伸縮するのか。貸し付けた銀行券が返済で発券銀行に戻って来て破棄されるのが蓄蔵だと言われているが,預金で戻ってきたら破棄されないではないか。
(中略)
 フィッシャーに倣ってPTとMVの関係を考えよう(P:物価,T:商品の総量,M:貨幣量,V:貨幣の流通速度)。Vは一定とすると,PTが増えればMが増えねばならず,PTが減ればMも減らねばならない。
 まず単純商品流通を想定した上で,金と紙幣が流通可能なもとで,必要な流通量が紙幣によってまかなわれているとする。何らかの理由で紙幣の発行量が増やせない時,もしPTが大きくなったらどうなるか。紙幣が増価して物価が下がるのか。そうではない。退蔵されている金が流通に出てきて通貨として用いられる。僕は,こう言ったのが岡橋さんの一番良いところだと思う。ここまでは『資本論』の1巻で理解できる。
 では,信用制度の下でならどうか。紙幣と銀行券が流通可能なもとで,必要な流通量が紙幣によってまかなわれているとする。紙幣の発行量が増やせない時,もしPTが大きくなったら,やはり蓄蔵貨幣が流通に出て来なければならない。これが銀行券による貸し付けによって実現される。そして,PTが縮小したら,不要になった銀行券は預金として還流するのだ。これは『資本論』3巻の論理だ。
 インフレの問題は,この後にある。銀行券が流通に滞留するとインフレになる。
――
 村岡教授は,ここで信用制度の下では銀行預金が蓄蔵貨幣に当たり,不換銀行券は流通の必要に応じて貸付によって流通に出ていき,返済または預金によって流通から出るのだと,それはマルクス経済学体系で説明できるのだと述べたのでした※4。
 この日,おそらく時間切れのために討論できずに残ったのは,現在の日本や多くの諸国のように,中央銀行だけが銀行券を発行し,それが通貨になっている場合の蓄蔵貨幣機能でした。しかし,そこについても佐藤さんは重要なことをレジュメに記していました。この場合は,市中銀行の預金すべてではなく市中銀行の支払準備金(市中銀行の現金手許残高+中央銀行への預け金)だけが蓄蔵貨幣に当たるというのです。
 日銀券や預金通貨は,実体経済の必要に応じて,銀行の融資拡大を主要経路として流通に入り(もちろん,銀行が株式や社債を買っても入りますが),不要になれば民間融資の返済,市中銀行による日銀当座預金の積み増し,市中銀行から日銀への融資返済,日銀の売りオペレーションによって流通から出るのです。とりわけ重要なことは,市中銀行が日本銀行に持つ預金は,実体経済の流通に必要な貨幣量に含まれない蓄蔵貨幣だということです。私は,このような関係をようやく理解するに至りました。いや,当時はおぼろげに理解していただけだったと思います。当時は,「そうすると,政府が国債を日銀に引き受けさせない限りは,インフレにならないことになるな」と思ったことを覚えています※5。
 これらの学びの仕上げは,後期課程3年時,1991年7月24日から12月20日まで行われた村岡ゼミでした。我々の理解の浅さに業を煮やしたのか,村岡教授は1991年7月24日から12月20日まで,国際経済論特論・特殊研究として『資本論』3巻5編(第25-31章)の講読を行ってくれました※6。そこでの討論と解説で,手形流通の相殺原理を基礎とした銀行信用論,不換銀行券=信用貨幣説,蓄蔵貨幣を出発点とした銀行論,信用における貸付先行説,産業的流通と金融的流通の区別などを,ようやく概要において理解できたと思います。ノートを見ると,いかにもわかっていない感じの私の質問に対して,先生ががまん強く説明してくれていることがわかります。

 こうして私は貨幣・信用理論を学びましたが,その内容は長い間,研究にも教育にも使われることがなく,頭の中に眠っていました。もっぱら産業論や経営学の研究に没頭しなければならなかったからです。1990年代の終わりから2000年代の初めに,デフレをめぐる論争を眺めていた時にも,過去の学びとはうまく結びつきませんでした。
 ところが,2018年度「日本経済」の講義を準備するために,マネタリーベースを急拡大させてもマネーストックは一向に拡大しないというデータを見ていたときに,大学院ゼミの記憶がよみがえってきたのです。私はこの現象を説明できる。リフレ論のどこがおかしいのかもわかる。これは,あのゼミの話だ,と。
 国独資研と村岡ゼミでの経験は,私が日本経済の講義をすること,アベノミクスを批判的に評価することを可能にしてくれました。ゼミが私を育ててくれたのです。25年以上前のゼミが,私を助けてくれたのです。
 学部ゼミ生の皆さんの多く,また大学院ゼミ生であっても半分以上の人は,公務やビジネスの世界に進まれるのであって,学術研究に専念するわけではありません。けれど,それぞれが異なる形で,何か,ゼミをきっかけに自分のものの見方,考え方が変わり,人生に何かが付け加わるような経験をしてほしい。私はそう思っています。

2019年3月

産業発展論ゼミナール担当教員
川端 望

※1 当時,『マルクス世界市場論』(新評論,1976年)がすでに出版されていましたが,私は怠惰にも読んでおらず,もっぱら前期課程2年の時に出た『世界経済論』(有斐閣,1988年)を読み,わからないところを研究年報『経済学』の論文で補っていました。なぜ,読書の優先度が単行本でなく研究年報に向かっていたのか,いまでもよく思い出せません。
※2 当時,資本論・国家独占資本主義研究会という自主的な研究会がマルクス経済学の教員・院生の参加で開催されていました。学派別の研究会はほかにも多くあったらしく,これらが大学院改革の際に正規の授業である特別演習に引き継がれました。資本論・国独資研究会は「社会経済特別演習」となりました。
※3 当時,大学院の授業は前期課程においては「特論」,後期課程においては「特殊研究」として開講されていました。当時は大学院生が1学年に数人しかいませんでしたので,授業の実態はゼミでした。
※4 これは,「管理通貨制度のもとでは金兌換がなされていないから,流通必要金量概念は必要ない」という主張への反論でもありました。金兌換があろうとなかろうと,流通必要金量の概念があるから,銀行券が流通に入る際の論理を説くことができるのだと言っていたのです。
※5 H君が可能性を追求したように,信用創造がインフレーションにつながる何らかのメカニズムが存在すれば別で,その可否を私はまだ断言できずにいます。しかし,少なくとも,信用膨張による景気過熱とインフレを単純に同一視するのは根拠がないと思います。景気過熱の際は,財・サービスの需要超過によって物価が上昇しつつ,流通に必要な貨幣量が増大しているのです。
※6 私たちより前の世代の学生ならば原書で行ったかもしれませんが,それはもはや無理で,日本語訳を使いました。

<関連投稿>
「リフレーション派の理論的想定と『異次元緩和』の実際は矛盾している」Ka-Bataブログ,2019年3月3日。


三菱重工は賠償の可否とは別に挺身隊を働かせた事実についての見解を表明すべきだ

 元朝鮮女子勤労挺身隊員訴訟。判決が日韓請求権協定と矛盾しているかどうかは,政府レベルで交渉するしかないが,私は政府と独立に,また賠償金を支払うかどうかは別にして,三菱重工が,女子勤労挺身隊を働かせた事実をどう受け止めているのかを表明すべきだと思う。三菱重工は当事者だからだ。また,日本のマスコミは,これらの挺身隊員を三菱重工がどのように動員し,どのように働かせたのかを報じるべきだと思う。まず,それが基礎的事実だからだ。新日鐵住金についても同様であることは,以前に述べた

 徴用工や挺身隊員の訴訟と慰安婦問題はしばしば重ねられるが,一つ大きな違いがある。慰安婦問題では,日本政府が謝罪していることだ。謝罪のあり方についていろいろ議論があるにせよ,1992年の加藤官房長官談話から2015年の日韓合意時の安倍首相メッセージに至るまで,お詫びと反省を表明していることは間違いない。謝罪すべきでないなどという声が日本からあがるのも間違いだし,日本は謝罪していないなどという声が韓国からあがるのも間違いだ。

 しかし,新日鐵住金や三菱重工の場合は,自分たちが当事者であるのに,徴用工や挺身隊員を働かせたことをどのように考えているのかを,そもそも表明しようとしない。これは適切ではない。法的に賠償すべきかどうかと別に,そもそも前身企業や自社の行為はどうであったのかを,歴史として評価しなければならないはずだ。

 「謝罪や反省をすれば支払わざるを得なくなる」などというためらいが生じるかもしれないが,そんな態度を表明した方に道義がなくなることは明白だ。また,そうした懸念は過去の経験に照らしても正しくない。河野談話やアジア女性基金の時も,日本政府は首相や要人がお詫びと反省の意を表明したうえで,日韓請求権協定の上から国家賠償というスキームがとれないから別の方法を考えるという姿勢をとった。その措置が今に至るまで韓国側の理解を得られていないのは確かであるが,謝罪することと口をつぐむことではまったく異なる。

 具体的にどう異なってくるか。今後,記事にある欧州での差し押さえの問題を始め,国際的にこの問題が評価されるようになる可能性はある。韓国側の同意を得られていないとはいえ,日本政府は場合によっては国際司法裁判所への持ち込みも考えているのだからなおさらだ。その際に,基本的事実関係は何かということは,必ず問題になる。日韓請求権協定の交渉経過と解釈だけが問題になるのではない。新日鐵住金や三菱重工が,かつて徴用工や挺身隊員をどのように働かせたかが,英語やそのほかの言語でいまよりも論じられ,報道されるだろう。その時に,当事者が自社の歴史について口をつぐみ,ただ「条約で払わなくてよいことになっているから」という姿勢で,国際世論の評価に耐えられるだろうか。私は,無理だと思う。

 新日鐵住金と三菱重工は,日韓請求権協定の解釈は政府に同調するとしても,まず自社の過去に当事者として向かい合ってほしい。それはグローバル企業としての社会的責務の一つだと思う。

「三菱重工の資産差し押さえ、申請 徴用工訴訟の原告側」朝日新聞DIGITAL,2019年3月7日。

<関連投稿>
「徴用工裁判において新日鐵住金が問われること :政府の協定解釈とは別に,当事者としての事実に関する見解を」Ka-Bataブログ,2018年11月13日。

2019年3月9日土曜日

佐竹光彦・飯田泰之・柳川隆編『アベノミクスの成否』勁草書房,2019年の7つの章を読んで

佐竹光彦・飯田泰之・柳川隆編(2019)『アベノミクスの成否』勁草書房。講義に反映させる内容があればと思い,マクロ経済政策をとりあげた1-6章を読んだ。

 どの論文もまちがっているとは思わない。着実に分析を行っていると思う。しかし,私にとってさほど新しい発見はなかった。なぜかというと,1)学説的にはアベノミクスを主導したリフレーション論が理論的及び実証的に妥当であったかどうかを正面から検証していないこと,2)現状分析としては,安倍政権下での景気回復が,なぜ独自の特徴(株価と企業収益が上がり,雇用の総量は増え,賃金は上がらず,コアorコアコア指数で見た物価も上がらない)を持ったのかについて,ほとんど突っ込んでいないからだと思う。正直,分析内容よりも,分析視角があまり鋭いと思えないことに疑問を持つ。

 唯一,深く考えさせられたのは,野田政権の解散表明が投資家の期待を大きく変えて円安への転換をもたらしたという北坂真一教授の指摘だ。飯田泰之教授は,これを期待とその転換の重要性を示すものとしているが,私は,それは分野によると考える。すなわち,アベノミクスにおいて,期待とその転換が直ちに効果を表したのは円安と株高であった。しかし,肝心かなめの財・サービスにおけるインフレ期待は,黒田総裁や岩田前副総裁も嘆くように,頑として動かなかったのである。それは,外国為替市場や株式市場と財・サービス市場では,投機的に反応できるかどうかが異なり,また仮に反応するとしてその速度がまったく異なるからだろう。この点は,参考になったが私の見解を確証させたのであって,変更する必要はない。
 
 細かいところで参考になったことはある。私は黒田総裁就任以来の日銀の金融政策を本質的に連続していると考え,すべて「異次元緩和」と呼んでいたが,形はだいぶ変わっているので,呼称の時期区分は実務の世界に合わせた方が良いかなと考えた。また,財務所の中島朗洋氏や飯田教授が掲げた財政に関する図表は,何点か講義スライドに取り入れた方が良いなと思った。

 マクロ経済政策とは別の話だが,大島堅一教授が執筆された第10章「安倍政権下における原子力政策ー費用負担制度を中心にー」も読んで,これはたいへん勉強になった。自民党政権に戻ってから「原発はコストが安い」と政府が主張するようになった根拠とその薄弱さ,損害賠償費用の内部化が,いつのまにか汚染者負担原則によってでなく,過去に電力料金が安かったのだから東京電力の消費者が負担せよという論理によるものにすりかわっていることが,よく理解できた。


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2019年3月5日火曜日

年功賃金をそのままにした「働き方改革」で「同一労働同一賃金」は実現できるか

 「大学職員に「同一労働同一賃金」はありえるのか?」大学職員の公募情報lite,2019年3月2日
 この記事のライターは大学の職場に独特の事情をとりあげることを意図していたのだろうが,企業一般に存在する問題を言い当ててしまっている。

「契約職員の同⼀労働同⼀賃金を阻んでいる壁が、専任職員に適用されている年功俸給です。」
「専任職員の年功俸給と契約職員の同⼀労働同⼀賃金を併存させようとすると、「30歳と40歳の2名の専任職員と同じ業務を契約職員が担当した場合、どちらの専任職員の給与に合わせるのか︖」というような問題が生じます。」

 その通りだ。これは,大学だけの話ではない。日本の年功賃金を放置したまま「同一労働同一賃金」を実現しようとする「働き方改革」関連法の前に立ちふさがる,最大の壁であり,原理的に乗り越え困難な壁である。一体全体,どうするつもりなのか。

 この記事のライターは言う。
「したがって、契約職員と専任職員の間で同⼀労働同⼀賃金を実現するためには、おそらく専任職員に関する厳密な能力主義給与体系が前提になるのではないかと思っています」。

 まちがいとはいえないが,こういってもおそらく力がない。日本の大企業は,すでに「能力主義管理=職能給」を制度上は実行しているからだ。しかし,「能力」を測る尺度が曖昧模糊としているために,現実にはジェンダーバイアス付き年功賃金となっている。ここでジェンダーバイアスとは,露骨に女性を劣等視する差別だけではなく,「育休なんか取るやつは会社に貢献する能力がない」という類の,事実上女性を不利な立場に追い込むことを含む。

 だから,同一労働同一賃金を実現しようとしたら,必要なのは能力主義ではなく,職務給だ。ポストそのものに値段をつけ,誰がやろうとも同じ賃金を払う。もちろん,成果査定によって差はつくだろうがベースは同じだ。これならば,30歳と40歳の専任職員の給与は同じなので,冒頭の悩みはない。専任社員と契約社員との職務の価値(肉体的・精神的負荷,付加価値への貢献,難易度,必要な訓練費用,責任の度合いなど)の同一性・差異性だけで考えて,つまりは同一(価値)労働同一賃金の原則によって賃率を設定できる。

 日本の正社員の賃金形態を一気に職務給に飛び移らせることは難しい。しかし,年功賃金のままで契約社員や多様な非正規社員との間での同一労働同一賃金を図ることは,もっともっと難しい。

 この難題は,現在厚労相から提出されている「同一労働同一賃金」ガイドライン(※)では解決されていない。このままでは企業の現場は混乱し,「働き方改革」は,基本給の同一労働同一賃金については絵に描いた餅になるだろう。どうしたらよいのか。政府には,関連法案が完全適用される来年4月までに方策をねり,より具体的な法解釈を整える責任がある。

「短時間・有期雇用労働者及び派遣労働者に対する不合理な待遇の禁止等に関する指針」(同一労働同一賃金ガイドライン),2018年12月30日。

2019年3月3日日曜日

リフレーション派の理論的想定と「異次元緩和」の実際は矛盾している

 この小論は,リフレーション派が目指したのは「名目的物価上昇が引き起こす需要増加」のはずだったが,実行された「異次元緩和」が刺激しようとしたのは「需要増加に伴う実質的物価上昇」であるという矛盾を示して,リフレーション論の果たした役割を指摘する。

 ここでは,1990年代以後の日本経済を「不況だからデフレになったのではない。デフレだから不況だったのだ」と診断してきた人々,その裏返しとして「デフレを脱却すれば景気が良くなる」とも主張し,そのために通貨供給量を膨張させるリフレーション,それを達成するためのインフレ・ターゲティングを主張した人々をリフレーション派と呼ぶ。この人々の一部は政財界に影響力を行使することができ,ついに安倍首相・黒田総裁のもと「異次元緩和」で実行させた。

 「好況だからインフレになる」「不況だからデフレになる」は,常識的にわかりやすい。好況期の財・サービスの需要超過,不況期の供給超過で物価がそれぞれ上がり,また下がるからだ。この好不況が民間セクターによって自律的に起こったものとすれば,財・サービスの流通する市中の需要・供給超過に応じて,流通に必要な貨幣が増減する。それに応じて,銀行からの貸し付けが増えたり減ったりして,通貨量は調節されるのだ。その際に生じる「インフレ」「デフレ」は,実質的な物価上昇,実質的な物価下落である。

 リフレーション派が想定しているのは,このような事態ではない。不況になっていなくてもそれより先にデフレが,好況になる前でもまずインフレが起こるような事態を想定しているのだ。

 古典的な本位貨幣制度ならば,こうしたインフレ・デフレもありうることはすぐにわかる。価格の度量標準(1円=金750ミリグラムなど)が切り下げられれば物価が騰貴し,切り上げられれば下落する。財・サービスを流通させるために必要な金属自体の量は変わらないのだが,それに対応する価格標準が変わってしまったために,物価が騰貴したり,下落したりする。これは名目的な物価の上昇・下落である。

 管理通貨制のもとでは,価格の度量標準は公定されない。そのため,物価の変動が実質的なものか,名目的なものかの区別はわかりにくい。事実,日常用語ではインフレーションとは持続的な全般的物価上昇であり,デフレーションとは持続的な全般的物価下落だとしか理解されていない。しかし,財・サービスの流通する市中の需要・供給超過に対応して通貨量が増減し物価が上下するのか,通貨が投入されたり,必要なだけ投入されないために物価が上下するのかという区別は存在する。前者を実質的な物価の上昇・下落,後者を名目的な物価の上昇・下落と呼ぶこともできる。

 管理通貨制のもとで後者が生じるのは,例えば不換紙幣を政府が発行したり,政府が中央銀行に国債を直接引き受けさせたりして,財政支出を拡大した場合である。この時,財・サービスの流通量は変わらないのに通貨供給だけが増加するので,物価は上昇する。

 リフレーション派は,このように物価上昇・下落に実質的なものと名目的なものの区別が存在することを認識している。そこまではもっともである。

 その上で,リフレーション派は,1990年代以後の日本経済について,まず日銀が十分な金融緩和をせずに通貨供給を制限していたから,名目的物価下落としてのデフレになり,デフレだから不況になったと主張した。そして,その裏返しとして,通貨供給量を十分に増やせば,名目的物価下落としてのデフレがなくなり,不況もなくなると主張した。そして,この主張は安倍政権,黒田総裁のもとでの日本銀行に採用されるに至り,「異次元の金融緩和」が実行されたのである。

 「異次元緩和」で行われたことは,日銀による国債の無制限購入,ETF(上場投資信託)やJ-RIET(不動産投資信託)など金融資産の大量購入である。この代金が金融機関が持つ日銀当座預金に振り込まれる。しかし,これではまだ通貨供給をしたことにならない。日銀当座預金の増加が短期金融市場での供給を増やし,利子率を低下させて,それが銀行からの企業の借り入れ増につながった場合,あるいは日銀当座預金の低い収益性(今は部分的にマイナス金利やゼロ金利もある)に飽き足らない金融機関がより収益性の高い貸し出しや投資を行った場合,はじめて通貨供給量(日銀券や預金通貨)が増加する。

 リフレーション派はこの流れが円滑に進むだろうと考えていたが,実際にはマネタリーベース(日本銀行券発行高+貨幣流通高+日銀当座預金残高)は激増したもののマネーストック(M2ならば日本銀行券発行高+貨幣流通高+預金通貨+準通貨+CD)は過去のトレンドを超えては伸びなかったというのが,統計の示すところである。

 なぜ,こんな結果になったのか。ここで問いたいのは,リフレーション派は名目的物価下落に名目的物価上昇で対抗しようとしていたはずなのに,「異次元緩和」の具体的な政策で想定されているのが,実質的物価上昇だということである。

 「異次元緩和」は,銀行が企業からの借り入れ需要に応えやすくし,あるいは新規社債発行の希望を適えやすくしようとしているのだ。実現すれば,企業は投資を行う。市中では預金通貨が増える。あるいは日銀当座預金が減って市中に日銀券が出回る。これは,財・サービスを流通させるための必要通貨量の増大に,金融機関・日銀が応じていることに他ならない。ここで目指されているのは,リフレーション派が想定したよな,まず通貨供給量を伸ばしてインフレにし,それを刺激に需要を伸ばすということではない。需要を伸ばせばインフレになり通貨供給量も伸びる,ということに過ぎないのだ。

 リフレーション派は,ときに一般向け解説では,日銀券=不換銀行券を不換紙幣と同一視する。日銀が国債を買い入れれば通貨供給量が自動的に増えるかのように話をもっていくのである。しかし,これはおかしい。日銀券は政府発行の不換紙幣ではない。いくら日銀が国債を買っても,また銀行にお金を貸し付けても同じだが,銀行が日銀当座預金をそのままにしておくだけならば,通貨量は増えない。日銀の金融調節では,需要と関係なく通過を流通に投入することはできない。

 あるいはまたリフレーション派は,ここを「期待」の理論でお化粧する。名目金利が下がることに加えて人々の予想物価上昇率が上がれば,その合力として実質金利が下がるのだから,インフレ期待を高めて好況にするという因果関係だという。それがうまくいかなかったのは黒田総裁や岩田前副総裁が嘆いている通りである。しかし,期待は期待であって,実態が動かないと完結できない。期待の論理という皮を一枚はげば,より実態的な過程にあるのは,需要を刺激できれば好況になってインフレになるという単純な因果関係なのである。

 だからリフレ派は,理論と政策が矛盾している。リフレ派は,名目的物価上昇を起こして不況を好況に転換させるのだと主張した。しかし,実際に行なわれた「異次元の金融緩和」は,需要を刺激して,実質的物価上昇を伴う好況を呼び起こそうとするものだったのである。

 これは,理屈だけの問題ではなく,リフレーション理論が果たした役割に関わる。「異次元緩和」は確かに非伝統的な政策を繰り出しているものの,中央銀行による金融調節の本質を変えたわけではなかった。日銀当座預金を積み上げても通貨供給量が増えなかったという事実からくみ取るべきは,財・サービスの流通する市中からの需要がなければ通貨供給は増えないのであり,財・サービスの流通から全く独立に通貨供給を増やすことはできないということである。この金融調節の性質を歪めて伝え,日銀が自由に通貨供給量を調節できるかのように宣伝し,「異次元緩和」に過度な幻想を持たせたことがリフレーション理論の役割だったと,私は考える。

 残された論点であるが,リフレーション派が,自らの理論に整合した政策を行う可能性が二つだけある。ひとつは政府が発行する国債を,日銀が直接に引き受けることである。この場合,日銀が支払う代金は政府預金に振り込まれ,政府は必ずやそれを財政支出に用いるだろう。よって通貨供給量は増大する。もうひとつは,政府が不換紙幣を発行して財政支出に用いることである。これらの手段を使ったときのみ,日銀を従えた政府は,望むだけ通貨供給量を増やすことができる。ただし,減らすことは困難であろうことは,歴史が示している。

 小論は,「異次元緩和」をめぐるリフレーション派の矛盾とその実際的役割を論じた。日銀による国債引き受けや政府紙幣発行の是非,さらに金融緩和・財政拡張に過度に依存すること自体の問題については,残された課題である。

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「稲葉振一郎『新自由主義という妖怪 資本主義史論の試み』を読む」Ka-Bataブログ,2018年11月1日。
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日銀による金融政策だけで物価を上げようとすることの限界について(2018/6/16)」Ka-Bataアーカイブ。
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