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2018年11月6日火曜日

「事務職になりたい」は過去へのあこがれだが「転勤がないように働きたい」は未来への要求だ

 「超売り手市場なのに「事務職志望の女子学生」があぶれる理由」という記事を読んだ。タイトルがことの核心を言い当てていない。実は「一般職事務職志望の女子学生」の話である。「一般職」で「転勤がない」というキーワードを落とすと,この話は分からなくなると思う。

 最初読んだ時には1998年ころの記事の再録かと思った。言うまでもなく,「漠然とした事務職」は非正規化,IT,そしてうまくいけばAIによって職そのものが減っていく。非正規化は止められてもITやAIは止められない。程度とスピードはとにかく,傾向として減ることは疑問の余地がない。

 その一方で,転勤のない地域限定職(=地域限定正社員)は,これから増えると予想されるし,すでに導入している会社もある。働く側からすると,ライトな場合はワークライフバランス,ヘビーな場合は親の世話のためにニーズが大きい。ただし非正規では生活が成り立たないから正社員にはなりたい。他方,会社側もすべての正社員をメンバーシップ型雇用にして,具体的スキルを一から育成して活用し,終身雇用する見通しはない。両者のニーズはそれなりに一致する部分がある。そして,社会的潮流として正規と非正規の格差縮小の要請があり,これは安倍政権から共産党までだれも否定しない課題だ。ニーズと社会的要請がうまく合体すれば,地域限定職,職務限定職は増える。

 よって,まず求められるのは,企業側の雇用システムの変化だ。新規学卒採用の在り方が変わろうとする機会に,従業員のキャリア設計も見直すべきだろう。
 障壁は,雇用保障の考え方を転換しなければならないことだろう。日本の雇用保障や解雇制限は,「長く一緒に働いていた人の雇用を保障」という属人原理で構成されている。しかし,地域限定職もある程度そうだが,職務限定職ならなおさら,「就いている仕事が存在する雇用を保障」にしなければならない。自分がそのためにやとわれた仕事が存在して,正常に遂行できている限りは雇われることが正当だ。つまり,非正規を5年で雇い止めるなどは不当ということになる。逆に,特定の仕事や職場がなくなった場合は,解雇されうる。従業員側が当然に配置転換を求めることは難しい。この,これまでと相当異なる原理に移行するのは,労使とも容易ではないだろう。

 学生の側には何が求められるか。この記事の観点だと,女子学生には,バリキャリをめざすか,ミスマッチで職がないかの選択肢になってしまう。それでは適切でない。女子学生がかわいそうだから助けるべきとか甘えているから厳しくすべきという話ではない。女性が活躍できないと労働力不足はどうにもならなくて日本経済がだめになるのだ。

 女子であれ男子であれ,若年層に漠然とした事務をさせる余地はもはやない。漠然とした「事務職になりたい」というのは甘えだ。そう言って言い過ぎなら,もう帰ってこない過去へのあこがれだ。しかし,地域限定・職務限定で様々な仕事をやってもらう余地は大いにある。若者は,その求人に明示される一定の仕事能力を身に着けることが求められる。それは一部は当人の責任だが,一部は,学校教育が職業教育の比重を増やして担わねばならないだろう。そして,ワークライフバランスや家族を重視して地域限定で働きたいというのは甘えではなく正当な要求だ。個人の権利というだけではなく,社会経済の改善につながる未来志向の要求なのだ。その要求がかなえられた時にこそ,日本経済は少子高齢化のもとでもそこそこ成長でき,雇用が安定した社会に着地できるからだ。

2018年11月9日表現を修正。

服部良祐「超売り手市場なのに「事務職志望の女子学生」があぶれる理由 ITmediaビジネスONLiNE」2018年11月5日。

2018年11月3日土曜日

続・留学生が日本の大学を卒業して就職する際の条件緩和について

 山脇康嗣「日本で年収300万超の外国人が大量に働く日」(※1)より引用。「日本が本格的な移民社会になるという意味で、見落とされている重大な「改正」が、実はもう1つある。それは、外国人留学生が日本の大学を卒業し、年収300万円以上で「日本語による円滑な意思疎通が必要な業務」に就く場合は、職種を問わず、期間も限定せず、「特定活動」という就労資格を認めるというものだ。」

 私は仕事の性質上,入管法が対象にしている技能労働よりこちらの大学生の問題の方に意識が向いていて先に気が付いたが,一般には気が付きにくい。というのは,この改正は入管法を改正せずとも,法務大臣の告示だけでできてしまうからだ。実は,私もこの法改正が不要という手続きの落とし穴は見逃していて,濱口桂一郎氏にご指摘いただいた(※2)。

 先日,私はこのブログで,ホワイトカラー職への就職制限を外すのは賛成だが,ブルーカラー職への就職を認めるのは,留学・大学という制度の無駄遣いなのでやるべきでないと主張した(※3)。

 私が恐れているのは,大学を技能労働者になるためのトンネルに使う動きであり,それによって1)大学教育にかける資金と労力が有効活用されないこと,2)いま一部の日本語学校がそうなっているように,大学の入試と教育水準が劣悪化すること,3)そしてこのルートにより技能労働者の受け入れ総数が何のチェックもなく増えることだ。最後の点について,大卒の外国人と高卒の日本人が就職で競合するようでは,留学生獲得政策の信頼性が問われ,反発も強まるだろう。

 政府は入管法改正案で,労働市場テスト(=その職に日本人が採用できない市場状況であることの確認)も総量規制がない受け入れ方を提案しているが,同じ発想を大学卒業者に「特定活動」ビザを付与することにも適用しようとして。「特定活動」は本来社会の多様なニーズに基づき,他の在留資格に当てはまらない活動での在留を認めるものなので,融通が利くところがある。調理の専門学校卒業後も,引き続き日本料理店で修業できるようにするとか,90日以上日本で入院して治療を受けるなどの場合だ。しかし,大学卒業者に一律付与するのは制度の大幅な拡大解釈だ。ブルーカラー業務を含む職種に就くことを,総人数無制限で認めることになる。不況期に大卒の外国人と高卒の日本人が就職で競合することにもなりかねず,留学生獲得政策の信頼性が問われ,反発も強まるだろう。

 他方,ここが改善されるならば,意見を修正してもよいかもしれない。その改善とは,1)この記事も述べているように外国人技能労働者の受け入れ枠について,労働市場テストを行い,総量もきちんと決めること,2)大卒者がブルーカラー業務に就くときは,「技術・人文知識・国際業務」ビザや職種制限の緩い「特定活動」ビザによって就くのでなく,「特定技能」ビザに応募しなおし,その基準で審査を受けることの二つが満たされることだ。なお,本当に特定の活動での在留が必要な時に,現行制度を使って「特定活動」ビザを申請することは何も問題はない。

 技能労働者の受け入れ総数を決める仕組みを作っておくことは非常に重要だ。大卒者についても,受け入れ総数が決まっている中で大卒者と送出国からくる労働者が競争するだけならば,教育制度の効果をそぐというマイナス効果は変わらないにせよ,日本の高卒労働者との競合が激しくなる心配はない。また,不況期に大卒者が技能労働者になり,その分だけ送出国から新規にやってくる労働者が減る。そうすると,外国人技能労働者の構成における大卒者比率が高まり,在留経験が長く日本語能力の相対的に高い者の比率が大きくなる。不況による就職難で当事者たちは苦労するが,労働市場全体としては競争による質の向上効果が見込めるのだ。

 以上のように,私はとりあえず日本の大学を卒業した外国人の就業制限緩和という問題に即しても,技能労働者の受け入れにあたって総枠を設け,その総枠を決定する適切な体制をつくることが必要だと考える。入管法改正案は,少なくともそのように修正すべきだ。

※1 山脇康嗣「日本で年収300万超の外国人が大量に働く日 臨時国会に上がらない重要な議論がまだある」東洋経済ONLINE,2018年11月3日。
※2 濱口桂一郎「留学生の就職も『入社型』に?」hamachan'sブログ,2018年10月25日。
※3 川端望「留学生が日本の大学を卒業して就職する際の条件緩和について」Ka-Bataブログ,2018年10月22日。

3つの権利から考える徴用工補償問題の解決方向とその困難

 徴用工補償問題。だんだんと理解できてきたが,法的には権利が3種類あるらしい。

1)被害者の実体的請求権。
2)1)を保護する政府の外交保護権
3)民事裁判で訴えて補償を求める権利

 まず大事なことは,韓国の政府,裁判所,日本の政府,裁判所とも1)は認めているということだ。つまり,徴用工には被害が発生しており,補償を求めるのはもっともなことだ,というのは認めている。ここは,政治家の個人的本音はとにかくとしても,公式見解として共通の立場なのであり,共通の出発点にして解決を図ることが政治・外交として妥当だろう。昨日,共産党の志位委員長がこの観点での解決を提案したが,私も方向性において賛成だ。日本政府が述べている,請求権協定で問題が解決しているというのは,2)と3)を否定しているということであり,徴用工などいなかったとか,徴用は何も悪くなかったなどと言っているわけではないはずだ。

 実体的請求権が認められていることは,新日鐵住金にとっても重要だ。被害者に何らかの補償や見舞金を払っても,会社に不当な損害を与えることとはみなされず,株主代表訴訟を起こされる心配はないということだからだ。
 実際,西松建設中国人強制連行事件などについては,日本の裁判では2)3)は認められないが1)はあるということになり,企業と被害者が和解し,企業が補償や記念碑の建立を行っている。本件も,解決の道として一番合意できそうなのは,本来はこの方法だ。

 しかし深刻な障壁が二つある。一つは,日本政府が2)3)が消滅していると主張しているのみならず,今回の判決を全否定し,新日鐵住金にも補償に応じるなと要求していることだ。2)も3)も消滅していないとする韓国の裁判での判決に従って補償するという行為は,確かにとりがたいかもしれない。しかし,1)が存在することは認めているのだから,徴用工の受けた被害に心を配り,何らかの形で償おうとするのが政治というものであり,また後継企業の社会的責任ではないか。判決の論理は従い難いが,他の解決の道を探るという政治的・道義的姿勢は必要だろう。ただひたすら韓国を非難するというキャンペーンは,適切でない。

 もう一つは,韓国の運動や司法が2)3)を断固として主張するところから変化するかどうかだ。何しろ今回出たのは最高裁(韓国大法院)の判決であり,韓国内において守らないわけにはいかない。実質的に判決と異なる行為をするとなれば,相当な理由づけと正当性が必要になる。また,別件の従軍慰安婦問題において,1990年代のアジア女性基金による償い事業が挫折し,いままた2015年の慰安婦問題日韓合意も揺らいでいるという事情がマイナスに作用する。これらは,事実上,1)は認めて償いをするが,2)3)は認められないので日本政府からの賠償という形はとれないという立場によるものだった。しかし,アジア女性基金は挫折し,慰安婦問題日韓合意も,韓国国内における反発から揺らいでいる。加害者が被害者に法的補償をするのが正しく,他の方法はごまかしだという見解は韓国内に根強い。

 さらに深刻なのは,今回の判決は,徴用工の問題は植民地支配下の不法行為であり,それがそもそも請求権協定の対象外だとしていることだ。通常,この種の戦後補償の議論は,戦争被害の後処理をする外交合意が被害者の被害を発生させた行為をカバーしていることを当然とし,その上で,1)2)3)が消滅したかどうかを争っていた。が,今回の判決は,性質が異なるのではないか。要するに日韓条約や請求権協定では大日本帝国による植民地支配下で不法行為が行われたことを認めていないので,徴用工への補償に対する外交的保護が外れていないと言っているのではないか。

 これは,日韓条約当時の自民党政権が,大日本帝国による植民地支配の不当性を認めない立場をとっていたことのつけと言うこともできる。しかし,問題はそこにとどまらない。

 この論理が認められると,影響は計り知れないと思えるからだ。過去,植民地支配下で行われたあらゆる不法行為について,その後の外交的取り決めでそれらが不法であったと明示的に認められていないことは,大日本帝国に限らず欧米の植民地支配を含めて,残念ながら少なくない。この判決の論理が通用するならば,それらすべての不法行為について,個人は補償を求める権利が一般論としてあるだけでなく,実際に,外国の加害者を裁判で訴えて補償を求める行為が法的に可能になる。これは被害者救済の正義だけを考慮すれば,ありうることだろう。しかし,そうなると大量の訴訟行為によって過去を裁くことになり,その反動で,自己の利益を守ろうとする被告側から,過去の不法行為を否定する主張をも誘発することになる。それによって紛争の多発,外交の混乱が生じるのではないか。政治と外交において,過去の清算が一定の比重で一定の位置を占めることは当然だ。だが,この清算方法は妥当なのか。ここには,検討を要すべき深刻な問題があるように思える。

田上嘉一「韓国「徴用工勝訴」が日本に与える巨大衝撃 戦後体制そのものを揺るがすパンドラの箱だ」東洋経済ONLINE,2018年11月1日。
https://toyokeizai.net/articles/-/246841

山本晴太「日韓両国の日韓請求権協定解釈の変遷」法律事務所の書類棚。
http://justice.skr.jp/seikyuken.pdf
上記サイトには今回の判決文の日本語訳もある。
http://justice.skr.jp/

志位和夫「徴用工問題の公正な解決を求めるーー韓国の最高裁判決について」2018年11月1日。
https://www.jcp.or.jp/web_policy/2018/11/post-793.html

2018年11月2日金曜日

部品の価格だけでなくコストを下げさせるのが日本のサプライヤー管理の要諦

 池田直渡「自動車メーカーの下請けいじめ? 」ITmediaビジネスONLINE,2018年10月29日という記事を読んだ。
 著者は,「サプライヤー(下請け)に対して常に強い価格低減要求を出すのは当然のことだ」,それはいじめとは違うと強調している。そして友人の言葉を借りる形で,「メーカー、下請けともに長期的に収益を上げているなら、一見厳しい要求でもそれはただの企業努力を求める圧力であって、いじめではない」としている。まあ,これ自体は別に間違ってはいないだろうが,あまりにも当たり前すぎる。日本のサプライヤー管理の核心に迫っていないのではないか。
 日本のサプライヤー管理の要諦は価格低減ではない。価格低減だけでは,単なる値切り,買いたたきになることもあり,それこそ下請けいじめに終わる可能性もある。
 日本のサプライヤー管理が長期的にうまくいくのは,サプライヤーのコストの低減を要求し,コストの低減を通して価格低減を実現する場合である。部品メーカーのコストを下げるために様々な技術・管理の指導を行い,実行させる。その過程では,完成車メーカーはサプライヤーの生産工程を把握し,コストを把握することになる(※)。もちろん,部品メーカー側からの提案も受け付ける。こうした,共同作業によって,実質的なもの造り能力が上がり,品質が上がり,部品コストと最終製品コストが下がるのだ。完成車メーカーとサプライヤーを含んだ,サプライヤー・システム全体のパフォーマンスが上がるのだ。
 これは確かに共同作業であり,共存共栄への道である。ただし,両者の関係は対等ではない。完成車メーカーが部品メーカーのコストを把握すれば,部品メーカーの利益率を管理することができる。また,部品メーカーは部品開発と工程開発のために投資を行わねばならないが,カスタム品の外注が多い日本においては,その投資は特定の完成車メーカーとの取引から回収しなければならないことが多い(いわゆる関係特殊的投資)。この関係の中で,交渉力は完成車メーカーに優位に働くのだ。
 だから,優れたサプライヤー管理が行われた場合,確かに部品サプライヤーの売上高と利益は向上する。ただし,完成車メーカーより利益率は低いのだ。そして複雑なのは,部品メーカーの利益率が完成車メーカーより高いときは,完成車メーカーのサプライヤ管理が失敗している時なのだ。
 日本のサプライヤー管理が成功すれば,完成車メーカーとサプライヤーは共存共栄できる。ただし,完成車メーカーの優位においてである。完成車メーカーの優位の管理が失敗しているときは,サプライヤーは劣位に立たない代わりに,サプライヤーシステム全体としての繁栄を享受できない。このような非対称な長期相対取引関係は,1990年代以来,「系列解体」と「系列再強化」の綱引きの中で,全体として徐々に薄らいで来てはいるが,消滅していない。

※専門的研究者のための注。有名な故・浅沼萬里氏の『日本の企業組織 革新的適応のメカニズム』も,完成車メーカーと部品サプライヤーの取引関係を考察する際に,この重要な側面をほぼ見落としている。「ほぼ」というのは,浅沼氏は完成車メーカーがサプライヤーの利益を管理しようとしていることは指摘しているからだ。しかし,利益を管理するためには,サプライヤーの部品価格だけでなく,部品コストも知っていなければならない。完成車メーカーがサプライヤーの部品コストをどうつかみ,システム全体としての原価低減と能力向上に生かしているのかを,浅沼氏は見ていない。この点を直視し分析したのは清晌一郎氏と植田浩史氏だ。私は両氏の研究から学んだ。

池田直渡「自動車メーカーの下請けいじめ? 」ITmediaビジネスONLINE,2018年10月29日。
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1810/29/news041.html

参考
川端望「中国経済の『曖昧な制度』と日本経済の『曖昧な制度』 ―日本産業論・企業論からの一視点―」『中国経済経営研究』第1巻第1号,中国経済経営学会,2017年3月,26-32頁。また,この中で引用した清,植田両氏の研究を参照。
http://jacem.org/zenbun.html#em01



入管法改正。「移民政策だ」「移民政策ではない」の空中戦をやめ,中身の議論を

 入管法改正について。議論の入り口から無意味な空中戦になっていることを危惧する。在留資格「特定技能」1,2の設置について,「移民政策だ」「移民政策でない」という議論は,意味のない議論だからやめるべきだ。これは与党であれ野党であれマスコミであれ,日本語がわかり,Wikipediaさえ読めればわかることだ。

*国際的な定義は,ある国に12が月以上居住していれば移民なのだから,わが日本はとっくの昔に移民社会になっているのだ。当ゼミの留学生も,日本に来て1年以上たっているからみな移民だ。修了して,永住権は持っていないが「技術・人文知識・国際業務」ビザを更新しながら日本の会社で働いている元留学生もみな移民だ。留学生や技能実習生を大量に受け入れている段階ですでに移民政策を実施しているのであり,いまさらやるもやらないもない。

*当たり前のことだが,留学生も技能実習生も英語の世界ではみなemmigrant(移出民)とimmigrant(移入民)と扱われている。

*アメリカ合衆国のビザの種類には「移民ビザ(immigrant Visa)」があり,各種の非移民ビザと対比されている。この場合の移民は,永住権を持つ外国人を意味する。

*日本政府・自民党の定義は,「入国時に在留期間の制限がない者」で,アメリカのビザの定義よりやや狭い。入国後に永住ビザを取るケースを含んでいないからだ。だから,政府の見解では現在移民政策を取っておらず,今回の入管法改正も移民政策ではない。

 互いに定義が違うまま議論するのがおかしいのであり,報道はそこをきちんと指摘しなければならない。そして,メディアの役割は真の争点を指摘することであり,かみあわないことをワーワー言い合っているのを,そのまま報道することではない。

 空中戦をやめて具体的議論に入るべきだが,私もその準備が十分ではない。以前から述べている通り,私の見解の基本線は,理論的には現代資本主義において国際労働移動は不可避の問題であり,政策的には技能労働ビザを設置するしかなく,そのやり方が問題だというものだ。よって,今回の入管法改正に即してもっと具体的にコメントすべきなのだが,精査が遅れている。できるだけ急いで勉強したい。

「移民を流入させたがゆえの悩み,移民を流入させないがゆえの悩み (2016/6/28)」Ka-Bataアーカイブ。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/2016628.html

「外国人労働者について:もはや「受け入れるか,受け入れないか」の問題ではなく,「どう受け入れるか」の問題である (2018/6/6)」Ka-Bataアーカイブ。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/201866.html

「入管法改正案を閣議決定 単純労働で外国人受け入れへ」『日本経済新聞』2018年11月2日。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37249690R01C18A1MM0000/

ケース・スタディの方法論を学ぶ

 一昨日は,英文誌投稿を念頭に置いたケース・スタディ方法論の大学院ゼミを実施した。テキストは院生が査読者から参照指示された以下のもの。なぜか図書館によって心理学の書棚に分類されていた。
Ghauri, P.[2004]. “Designing and conducting case studies in international business research” in Rebecca Marschan-Piekkari and Catherine Welch eds, Handbook of qualitative research methods for international business, E.Elgar, 109-124.
 いろいろ議論したが,いちばん大きな論点は,「山勘でやっていたことを,自覚的に,正当性を確かめ,アピールしながら行う」ということだ。暗黙知でやっていたことを形式知にすると言ってもいい。例えば,これまでは調査記録の作成について,メモ→朱書き補筆→訪問先ごとに清書→調査記録の分析→論文のデータとして活用,という流れで自分では理解してきたし,そう教育もしてきた。だが,調査記録の分析の方法を,自分自身が自覚的にとらえていなかったため,院生にも十分明示的に教えることができなかった。例えば,画像1枚目は,張艶さんと私の以前の共著論文で,ソフトウェア企業の調査記録をどのように分析して論文のロジックにしていったかを説明するマトリックスだが,私たちはこのマトリックスを書きながら論文を書いたわけではなかった。ああでもない,こうでもないと調査記録をにらんで切り口を考え,切り口に従って記録に赤線や記号をつけ,抜き書きし,組み合わせているうちに何とかストーリーが見えてきたというのが実態だ。完全に山勘法である。仮に私自身はヤマ勘法で何とかしたとしても,山勘法の極意はいっしょに調査をして討論を長時間行った相手にしか伝わらず,徒弟制の世界となる。ハラスメントはしないように気を付けるとしても,多数の院生がそれぞれ別の研究をしているととても教えられるものではない。
 そうした結果,近年は院生が論文を投稿すると「リサーチ・クエスチョンと事例選択の整合性が説明されていない」「ケースの説明自体が目的なのかコンテキストのためにケースを置いているのか不明」「インタビュー調査であることの理由付けがはっきりしない」等々とコメントされることが増えている。これはまずいのだ。
 研究過程においては,調査記録を,時系列化,コーディング,クラスタリング,マトリックス化,パターン・マッチングなどの分析方法をもっと客観的なツールとして意識し,分析しながら,常にその分析方法の正当性を問う習慣をつけねばならない。論文作成過程で「マトリックスにしてみよう」「キーワードでコーディングしよう」「うまくいかないのは,このクエスチョンにこの方法が××で合わないからだ」などと自覚することだ。そのために,Nvivoのような定性分析支援ソフトを使うのもいいかもしれない(が,財布との相談になる)。そして,論文においては「○○の理由によりこのように分類して分析した」と意識的に説明して正当性を主張する。対抗的な説明方法に対する優位性も述べる。このようにして「単なるお話」ではなく学問的認識であることをアピールしていかねばならない。
 お前は53歳にもなって何を当たり前のことを言っているのだとおっしゃる方も多いだろうが,定性的事例研究において山勘法から前進するのは大変なのである。
 なお,Ghari教授はJournal of International Business Studiesにも論文を載せている大家らしいが,この論文では「大企業より中小企業の方が研究に関心を持ち,深く話してくれる傾向がある」とか,「事例選択はリサーチ・クエスチョンとのレレバンシーが肝心だが,旅費にも左右される」とか「最初のインタビューがその後を大きく左右する」などという,実態調査あるあるの記述もあって,親しみが湧いた。


2018年11月1日木曜日

稲葉振一郎『新自由主義という妖怪 資本主義史論の試み』を読む

 稲葉振一郎『新自由主義の妖怪 資本主義史論の試み』。稲葉教授はたいへんな博学で,本書に登場する書物には,私が読んでいないものも少なくない。著者は様々な経済思想を博覧強記に,かつ平易に解説し,自らの思想の見取り図にはめ込んでいく。ただ,正直に言って,私は稲葉氏の見取り図が読み取りにくく,また納得しづらかった。それでも何とか読み取ろうとしたうえで,何が納得できないのかを記しておきたい。

1.本書は,新自由主義とは何であるかということを前面に掲げつつ,近現代の社会経済思想史を描こうとしたものだと思う。
 しかし,この二つがどうかみ合っているのかがわからない。冒頭の章をはじめとする新自由主義論は,なぜか多くがマルクス主義者の新自由主義論を批判する形をとっており,それが新自由主義自体を正面から論じることを妨げており,論旨をとりにくくしている。
 著者の主張ではっきりわかるのは,(1)マルクス主義者が新自由主義を資本主義の新段階とするのは,資本主義から社会主義への移行の中で発展段階を論じるはずのマルクス主義にとって自己矛盾ではないかという批判と,(2)新自由主義は包括的な世界像を提示するようなまとまりに欠けているものだ,ということだ。(1)は,社会主義が破綻したからマルクス主義も全部だめだという乱暴な否定のバリエーションに見えるし,(2)は賛成できるものの,さほど切れ味がよい話とも思えない。そもそも著者がやたら(1)のマルクス主義批判に重点を置く理由がよくわからない。いや,新自由主義批判をするのは確かに左派やリベラル派ではあるが,マルクス主義者に限らない。誰もが社会主義への展望を考えているわけではないのだから,社会主義移行論の無効化を理由に新自由主義批判を批判するというのは,あまり生産的とは思えないのだ。

2.もう少し原理原則的に言うと,著者の理論批判の方法,つまり理論を理論によって評価するのか,理論を現実と照応させて,正確に言えば理論を,現実に対する自らの認識に照らして評価するのかがはっきりしない。上記のマルクス主義者批判では,著者はマルクス主義の理論的整合性を問う形で,つまり理論を理論によって批判している。他方,本書の随所ではマルクス主義,産業社会論,そして著者の言う「実物的ケインジアン」の有効性低下を論じるところでは,1980年代以後,市場競争と営利企業が技術革新を促進し,担うことになったという,現実(に対する著者の認識)を根拠としている。このような理論評価の方法の分裂はほかの箇所にも見られ,本書が何を基準として話をしているのかをわかりづらくしている。

3.もっとも,より具体的な,理論の成否を測る物差しとなると,本書全体に共通する軸がないわけではない。それは,著者の言葉を借りるならば「貨幣的ケインジアン」の理論によって種々の学説を裁断していることだ。私なりに言い換えると,ケインズのリフレ派的理解である。つまり,失業,有効需要不足の主原因は貨幣,流動性の不足であり,それへの処方箋は金融政策でのインフレ誘導だということである。対して著者によれば「実物的ケインジアン」とは,失業,有効需要不足の主原因として価格の硬直性を問題にするものであり,これは本来のケインズの論点ではないと著者は言う。マルクス主義,産業社会論,実物的ケインジアンに対して本書は様々な批判を投げつけるが,共通しているのは,貨幣の重要性とマクロ経済の領域を軽視したからだという批判だ。その批判の根拠は貨幣的ケインジアン,つまりケインズのリフレ派的理解であり,流動性を十分に供給すれば自由な市場経済は完全雇用を達成できるのであり,技術革新も担えるのだということらしい。
 となると,著者の現代資本主義評価というのはこういうことなのだろうか。新自由主義論のように,市場と競争が強烈すぎると批判するのは的外れである。そうではなく,何らかの理由で流動性が十分供給されずに経済停滞や失業が起こることと,完全雇用が達成されたとしても存在する社会問題が肝心だ,と。
 その成否はともかく,本書は,ケインズのリフレ派的理解という物差しに強く依拠している。しかし,他書に委ねるということなのか,そもそもケインズのリフレ派的理解について,さほど丁寧な説明をされていない。そのため,本書は,わかりにくいという声が出るかもしれないことを別にすると,リフレ派ならば賛成でき,リフレ派でなければ賛成できないという風に,はっきりと読者を選んでしまっていると思う。それでいいのだろうか。

4.私見では,著者は「実物的ケインジアン」を矮小化しすぎており,その結果,著者からみれば古い発想なのだろうが,市場の自己調整機能を過大評価していると思う。私の理解は以下のとおりだ。
(1)まず,著者がおそらくセー法則と貨幣ヴェール観を否定していることはまちがいなく,それは理解できる。しかし,それならマルクスに対する評価はもっと上げるべきだと思う。金本位制にとらわれていたというのは,一応信用論を銀行券にまで立ち入って論じたマルクスや,マルクス学派の貨幣・信用論に対してあんまりではないか。
(2)次に,流動性が供給されれば完全雇用が達成されるという理解だが,それがたとえ客観的には正しくても,政策論としては,流動性選好が貨幣の供給によって有意に操作できなければならない。しかし,貨幣をはじめとする流動性を,人為的に,つまり市中からの需要とは独立に供給することには限度があるのではないか。市中からの需要に金本位制が答えられず,管理通貨制という知恵が必要だったというところまでは納得できる。しかし,いつでもどこでも,政府や中央銀行が貨幣供給量を自由に増やせるという理解はおかしくないだろうか。市中の需要がないところに貨幣を無理やり供給することは,少なくとも著者が重視する中央銀行券専一流通システムの下ではできないのではないか。現代日本で,マネタリーベースを拡大してもマネーストックは拡大しないという現象はどう説明するのか。いくら金利を引き下げてもインフレ率が高まらず,成長率がリーマン・ショック前のトレンドを回復しない先進諸国の現実をどう説明するのだろうか。
(3)流動性選好は重視するが,資本の限界効率の不確実性は無視するのはなぜなのか。ケインズは価格の硬直性だけを主張したのではない。資本の限界効率が不確実だと主張したのではないか。だから,いくら利子率を下げ,よしんば流動性選好が和らいだとしても,その分だけ自動的に投資が増えるとは限らないのではないか。利子率やインフレ期待という数字ではなく,産業や社会やライフサイクルへの見通しという,人間の持つ,形のある期待に働きかけることで,はじめて資本の限界効率は上昇するのではないか。

5.技術革新が市場競争によって促進され,営利企業によって担われるという現実への評価の仕方にも,疑問がある。この現実により,マルクス主義と産業社会論の一定の側面,つまり資本主義は技術革新を担いきれなくなるだろうという展望が否定されていることは,私も同意する。しかし,それ自体は社会主義計画経済の崩壊以来言い尽くされていることであって,いまさら新しい論点だとは思えない。
 一つの問題は,技術革新が営利企業によって担われることをもって,ケインズの実物的理解を否定することはできないということである。技術革新が活発であるかどうかと,有効需要が足りて失業がなくなることは別だからだ。技術革新が活発な世界でも,いや場合によってはそれ故にこそ供給力が増大して,有効需要は不足するかもしれない。
 また,著者に従って貨幣的ケインジアンの視線に発つとしても,それでめでたしめでたしとはならないはずではないか。なぜならば,市場競争と営利企業による技術革新は,バブル経済の生成,金融セクターの肥大化を通して促進されるからだ。ここには,金融工学のように,技術革新の金融部面への偏りという問題も生じる。これは実物的であれ貨幣的であれケインジアン的に見るなら,問題の残る成長の仕方ではないのか。

6.本書の末尾では現代日本の経済政策が論じられているが,ここで突如として著者は緊縮的財政政策を嘆いている。本書のここまでの流れからすれば,著者にとって重要なのは金融政策であろう。現に著者はアベノミクスの異次元の金融緩和は高く評価している。しかし,それで物価が上がらず,景気対策が十分でなく,財政拡張も必要だというのであれば,それは理論的に「金融緩和だけでは有効需要が十分に回復しない」という証拠であり,ここにケインズのリフレ派的理解の限界が示されているのではないのか。

 以上,浅学を顧みず批判ばかり書き連ねたが,批判を通して自らの見解を再検討し,認識を深める訓練をさせていただけるという点では,本書はたいへんよい材料だった。著者に感謝したい。

稲葉振一郎[2018]『新自由主義の妖怪 資本主義史論の試み』亜紀書房。


<関連>
「ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は<経済>を語ろう』亜紀書房,2018年によせて (2018/6/21)」Ka-Bataアーカイブ。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/20182018621.html

「日銀による金融政策だけで物価を上げようとすることの限界について (2018/6/16)」Ka-Bataアーカイブ。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/2018616.html

「アベノミクスのどこを変えるべきか? 野口旭『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書,2018年)に寄せて (2018/5/13)」Ka-Bataアーカイブ。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/2018-2018513.html


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