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2020年10月4日日曜日

黒川伊織『戦争・革命の東アジアと日本のコミュニスト 1920-1970年』有志舎,2020年を読んで

  私の日本社会主義運動史への関心の一つは,日本共産党の組織と運動はいつ,どのようにして国際共産主義運動の一部から分離・独立したかという事にある(もうひとつは,日本資本主義分析における小経営への視座の変遷だ)。しかし,関心はあっても専門的な研究を行う余裕がなく,本や論文が目につけば読むくらいが限界だ。本書は,この関心に正面から応えてくれる労作だった。「帝国に抗する社会運動」という関心から,日本の共産主義運動と日本共産党の歴史を,中国,朝鮮半島,日本のコミュニスト,社会運動家,独立運動家の交流を軸として描いた研究だ。著者によれば新たな史実の発掘に努めたのではなく,すでに明らかな事実を統合して歴史の新たな語りを提示したということであるが,こちらの不勉強ゆえに初めて知ることも多かった。

 本書は,共産党のある組織論上の論点をめぐって展開されている。コミンテルン時代から1950年半ばまで,在外コミュニストは居住国の共産党に加入するという「一国一党の原則」がとられており,したがって在日朝鮮人や在日中国人が多数日本共産党に加入していたこと,逆に日本人が日本以外の共産党に加入していたことだ。この原則は米ソの平和共存論への転換,第三世界台頭の中での内政不干渉原則の浮上を背景に解消され,日本共産党は日本人のみによって構成される政党となり,議会進出を中心に合法活動による政権獲得をめざす路線に転換していく。

 これまで,コミンテルンの日本共産党への指導と援助,あるいはその名の下での支配介入のことはまあまあ常識程度に知ってはいたが,朝鮮人や中国人のの日本共産党への加入のことは,本当に形式的にしか知らなかった。『日本共産党の60年』で,戦後直後の中央委員会の構成に金天海という名前を見つけ,はてこれは誰だろうと思ったことが最初だったと思う。その後,コミンテルン時代から1950年半ばまで,在外コミュニストは居住国の共産党に加入するという「一国一党の原則」により,在日朝鮮人が多数日本共産党に加入していたこと,府中刑務所から志賀義雄,徳田球一,金天海を含む政治犯が釈放されたときに出迎えに来ていたのがほとんど在日朝鮮人であったことを知り,宮崎学『不逞者』で金の足跡を多少たどることができた。

 しかし,本書により,そもそも結成時点から,日本共産党は東アジアの社会運動家たちのネットワークの中にあり,その中で活動家たちの交流もあれば,日本帝国主義の朝鮮半島支配や在日朝鮮人の労働問題への運動家たちの関わりや関心・無関心も問われていたことを知った。例えば,大韓民国臨時政府と日本の共産主義運動の人的交流などは,これまで全く知らないことだった。これらは,今この瞬間を含む後の時代になって見れば,「光」とされることも「影」とも,果ては「闇」とされることもあるだろう。しかし,記録されるべきであり,書き落としてはならないことであると思う。その意味で,本書は大変貴重なものだと思う。

 本書を読んで私がうまく整理できなかったのは,著者が「東アジア/日本のコミュニストの活動は国際共産主義の路線に強く規定されてきた」(295頁)ということと,中野重治の「雨の降る品川駅」を冒頭から末尾に至るまで繰り返し参照して描く,活動家たちの個人としての交流の関係だ。明らかに著者は,政治の因果関係を規定する要因としての前者を重視しているが,後者を前者に解消していない。著者は,生活と運動の現場での国境を越えた交流と連帯,葛藤には,それ自体に意味があるものとして歴史を語ろうとしている。あえて単純化した言い方をすれば,ソ連共産党は東アジアの活動家を政治の駒のように扱おうとしたが,活動家たちは駒ではなく自律的に動く人間だったのだ。しかし,そうであるならば,この二側面を論理的に区別する視点が欲しい。

 著者は,国際共産主義運動と称した運動の相当部分が,一党制により政権を握った共産党が他国の社会運動に支配介入を行なうものであったことを認識している。しかし,その支配介入を伴った国際的な運動の中で,活動家同士の交流は培われ,現実への新たな視座と創造的な運動が生まれていく。逆に,草の根から始まった交流はモスクワや北京との連絡が生じるにつれて,ソ連共産党や中国共産党の路線がインプットされる回路に変質させられる。国際共産主義運動と呼ばれたものと,国境を越えた活動家の交流はイコールではなく,両者の間には相互に促進し,また対立する関係があったことを著者は描いている。そうであればこそ,読後感としてどうしても残る疑問がある。現実においてこの二側面が切り離せなかったのか,そうではなかったのか,あるいはいつまでは切り離しようがなく,どこで新たな選択肢が生まれたのか,実際にどのような試みが行われたのかということだ。しかし,これは本書の達成があればこそ生じる疑問であり,著者が書き通してくれた通史の土台に立って,読者が考えるべきことなのだろう。

黒川伊織『戦争・革命の東アジアと日本のコミュニスト 1920-1970年』有志舎,2020年。




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